在校生の方へ
学校から在校生の皆さまへのお知らせを掲載します。
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2024年9月30日(月)
9.30(月)自立した社会人
2024年9月30日(月)
生徒の皆さんへ
本校の生徒の皆さんには楽しく生活すること、規範意識を高めること、真の友人関係を構築することの大切さを実感して、働くことへの夢を持った社会人として飛び立って欲しいのです。
大人になってよかった、と思って欲しいのです。そうすれば、余裕を持って自分の人生を生きていくことができるからです。
今日で夏休み中の一文は終了します。10月1日からはスクーリングが再開します。そこでは、休み中に鍛えた自学自習の精神に加えて、共学あるいは協学することを学びましょう。
どちらも身につけた本校の生徒は、いざというときに頑張ることができるのです。本校の生徒は聞くだけ、言われたことをするだけの軟(やわ)な高校生ではないのです。また、周りを思いやることもできる生徒なのです。
「自立した社会人の育成」
いま、日本では大人になりたくないと言う青少年が増えているという。周りの大人たちが子供に「大人になることは、きついこと」という間違ったメッセージを与え続けた結果ではないだろうか。
外国では、親の管理下から脱するため早く大人になりたいと思う子供たちが多い。実際、私の長女の子供2人はハーフでテキサス州で生活してきた。いつも会うと早く大きくなって独立したいと言っていた。しかし、日本であれ外国であれ、社会人になることは社会的なアイデンティティ(存在感)が得られることを意味していよう。
仕事に就けば顧客に信頼され、社会的な居場所や報酬も得られる。学生時代では絶対に得ることのできない喜びです。
「大人社会に参入」することで、自立した1人前の人間として、自己のアイデンティティが得られ、「生きる喜び」も生まれてくるのだ。
人は、諦めた瞬間に目標への道は閉ざされてしまうし、自分がダメだと思えばダメになってしまうのです。他人が何と言おうと、自分自身が自分を強く信じて頑張らなければ何事も前には進まないのです。それが生きる力なのだということを忘れないて欲しいと思います。校長 中村三喜
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2024年9月27日(金)
9.27(金)心の雲
2024年9月27日(金)
生徒の皆さんへ
「心の雲」
日が落ちるとともに吹いてくる涼やかな風。いつ始まったのか集う虫の音。見上げれば、澄んだ夜空に月が皓々と輝いている。
この空のように、我が心に一点の曇りなしと言いたいところだけれど、なかなかそうはいかない。日常のさまざまな出来事や人との交わりの中で、ともすれば悩みや煩悶が生じ、思案に暮れる。
人生晴れた日ばかりではない。雨の日もあれば曇りの日もある。しかし、雲に覆われていても、たとえ土砂降りの日でも、雲の上にはいつも変わらず月は輝いている。
種々の事柄に追われて日を送るうちに、いつしか心に雲がかかり、物事の真の姿が見えなくなってはいないか。囚われや私心といった、お互いの心にかかった雲を吹き払い、澄みわたった秋の夜空を心に取り戻したい。そうすれば、なすべきこと、進むべき道もきっと見えてくるに違いない。
しばし足を止め、夜空を仰ぎ見よう。心に雲をかけてはならない。月を見失ってはならない。校長 中村三喜
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2024年9月26日(木)
9.26(木)流れに逆らわず
2024年9月26日(木)
生徒の皆さんへ
「流れに逆らわず」
昨日まで世界の常識だった価値観や秩序が、一日にして変わる。ありえないようなことが実際に起こるのが世の不思議である。安全や健康に対する意識も例外ではない。
歴史を紐解けばわかる。天動説の世に地動説を唱えられた時の人々の驚き。フランス革命や明治維新といった数々の動乱も同様で、一つの発見や革命や伝染病で社会が変わる現象は極めて多いのだ。
何の因果でこんな影響を受けるのか、天を恨みたい気持ちにもなろう。しかし、それは今を生きる我々だけの不満ではない。これは人類史上数千年、かつて何千億の人が経験した不条理の一つなのだ。所詮、腹をくくるしかないのだ。
ただ、古い秩序が失われたならば、代わりの何かが誕生している。一方で、いったん廃されても必要と分かれば復活されるものもあろう。
大切なのは柔軟さ。断絶の中に垣間見える流れに逆らわないことではないだろうか。その心がけがあれば一時の不自由を被っても希望は必ず見えてこよう。校長 中村三喜
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2024年9月25日(水)
9.25(水)必然
2024年9月25日(水)
生徒の皆さんへ
「必然」
あの出来事がなかったら、あの人の一言がなかったら、まったく違った道を歩んでいただろうと思うことが、誰にでもある。
そんな出来事や人との出会いを、たまたまだと考えるか、こうなるようになっていたと考えるか、それによって、心のありようや日々の生き方に大きな違いが生じてこよう。
お互いの人生には、忘れたくても忘れられないこともあれば、無意識に通り過ぎてしまう些細なこともある。嬉しいことも、二度と味わいたくない辛いこともある。だが、そうした出来事はみな偶然ではなく必然だと思う。そうすれば、あらゆることを受け入れ、その意味を見出し、自分の進むべき道をひらいてゆけばよいという諦観と心の平安が得られるのではないか。
新たな日を迎える毎日、そこでどんなことが起こるのか、どんな出会いが待っているのか。いずれにせよ、自らの受け止め方が、それら一つひとつの価値を決める。何が起ころうと、今ここにこうしてあることを喜び感謝しつつ、すべての体験を、わが人生を輝かせる宝としてゆきたいものである。校長 中村三喜
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2024年9月24日(火)
9.24(火)真剣
2024年9月24日(火)
生徒の皆さんへ
「真剣」
思うような成果があがらなかったり、いい知恵やアイデアが浮かばなかったりすると、お互いともすれば、じっくり取組む暇がないとか、自分には能力ないなどと言う。
確かに、忙しい日々の中で時間をつくるのは難しいし、素質や才能に左右されることもあるかもしれない。だが一方で、能力に恵まれ、時間も十分にありながら、なかなかうまくいかないという人も少なくない。
この違いはどこから生じるのか。経験の差や育った環境、運・不運など、さまざまなことが影響しているのだろう。しかし、結局はやはり、真剣さの度合いによるのではないだろうか。
本当に真剣なら、多忙の中でも徹底的に考え、何か糸口を見つけようとするはずである。そうすれば、必ず打開の道が見つかるし、子供たちのたわいのない会話からも、風の音や流れる雲からも、何か新しいアイデアのヒントが得られるに違いない。あるいは、その姿に感じて、周りの人がすすんで助言や協力をしてくれることにもなろう。
事がうまくいかないのを時間や能力のせいにする前に、どれだけ真剣に取り組み、考え抜いたかを今一度省みたいものだ。
校長 中村三喜
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2024年9月23日(月)
9.23 (月)仕事の味
2024年9月23日(月)
生徒の皆さんへ
「仕事の味」
学校を卒業し、社会人としての第一歩を踏み出すにあたって就いた初めての仕事。それが自分に向いた楽しいものであるように、誰しもの願であろう。
けれども、どんな仕事でも、それが自分に適したものであるかどうかを見極めるのは、それほど容易なことではない。最初はつまらなく思えた仕事でも、続けているうちにだんだん興味が湧いてくる。向かないと思った仕事に対する、自分でも気づかなかった適性が開発されてくる。
仕事というものはそれぞれ独特の味があり、その味がわかり楽しめるようになるには、多くの場合、やはりそれ相応の年月、経験が必要なのである。
せっかく自分で選択し、いろんな縁の力も働いて就いた仕事である。気に入らない、適性がないといった結論をあっさり出してしまわずに、まずは腰を据えてしっかりがんばってみよう。我慢、辛抱してみよう。今春から社会人としてスタートをきった新人は特にそうです。
一人前の社会人として、仕事の本当の味が楽しめる道が、そこから開けてくる。
校長 中村三喜
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2024年9月20日(金)
9.20(金)先手観音
2024年9月20日(金)
生徒の皆さんへ
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「先手観音様」
千手観音には、千本の手があり、それぞれの手に千の眼がついている。一見すると奇妙な姿ですが、何を表しているのでしょうか。
詩人の坂村真民は、目の見えない子が描いたお母さんの絵に、いくつかの手が描かれてあるのを見て驚き、先手観音の実在を知ったと言います。
その子にとって母は手であったのでしょう。いつもご飯を食べさせてくれる手、着替えをさせてくれる手、どこへ行くにも引いてくれる手。私たちも、思えばいくつの手をかけてもらって、今日まで生きてきたのではなかったか。
千の手には千の眼があるというのは、いつも見守られていることを意味していると言う。親は子のことをいつも見守っていてくれる。見守ってくれていることを感じると、生きる力を得ることができるのだとも言っている。
千の手をかけてもらったことに気がついたならば、今度は自らが千の手になって人のために尽くしてゆこうと思うようになるのではないだろうか。
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注記:密教の胎蔵界曼荼羅で観音が配置される場所を「蓮華部」というが、千手観音はその中でも「蓮華王菩薩」と称される最高位の存在になっている。京都市にある妙法院三十三間堂が、正式には蓮華王院というのはこれに由来している。
校長 中村三喜
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2024年9月19日(木)
9.19(木)自分探し
2024年9月19日(木)
生徒の皆さんへ
「自分探しは時間の無駄」
苦しいとき、ただ他力本願で救いを求めるのは、病気になったときに薬だけを頼るようなものである。たいがいの場合は薬だけではどうにもならず、結局のところ自分の節制の努力と自然治癒力が回復の鍵となる。自分の身体が健康になろうとしない限り、薬は効かないのだと思う。
まずは強い意志を持ち、自分で苦難を乗り越えよう、立ち直ろうと努力しなくてはいけない。自分が進む道で行き詰ると、往々にして人は、今の自分とは違う自分を設定したがるものである。そして、悩み苦しんでいる自分は本当の自分ではなく、理想とする自分はどこか別のところにいるような錯覚に陥るのだ。
そしてまた、「自分探し」や「新しい自分と出会う」というような誘い文句が巷間にあふれているものだから、それらに騙されて、さっさと進路を変更してしまったりする。
進路変更や転職が好結果をもたらすことも少なくはないが、私の周囲を見ていると、進路変更や転職が癖になって、いつまで経っても腰の落ち着かない人がいる。ありもしない「真の自分」、あるいは「本当の自分の居場所」を延々と探し求めているように見受けられるのだ。
仕事でも学習でも、入門期が過ぎたあたり、次は初級から中級に向かうあたりで、本当にこれが自分の進むべき道なのかと多くの人が悩む。そして、他の職業、他の専門分野が急に魅力的に見えてくる。フランスに行ってソムリエになるための修業をしたら素敵だろう。法律学の研究を止めて精神医学を専門にしたら道が開けるのではないか等色々考えるのだ。
だが、思い悩んでいる自分以外に真の自分がいないことだけは、しっかり心に刻んでおくべきだと思う。多くの場合、「自分探し」は時間の無駄である。虚構の自分を探し歩くより、日々自分がなすべきこと、目の前にあることを一つ一つ丁寧にこなしていくなかに真の悟りがあるからだ。
校長 中村三喜
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2024年9月18日(水)
9.18(水)時間の価値
2024年9月18日(水)
生徒の皆さんへ
「時間の価値」
時間だけは万人に平等に与えられている、というような言い方がされることがある。たしかに時計や暦で計られる時間の長さは、誰にとっても同じかもしれない。だが、寿命の違いだけを見ても、かならずしも時間は平等に振り分けられてはいない。そもそも時間の価値は、それを何に用いるのかによってまったく異なってくる。
たとえば、無為に過ごす1時間と勉強や労働に費やす1時間とでは、その価値がまったく違う。同じ勉強・労働をするのに1時間あれば十分な人間と2時間必要な人間がいたとすれば、前者は同じ時間に2倍の価値を付与できることになる。
人の一生もまた、生物として生きた長さではなく、その人が天から与えられた時間の中でどれだけ価値のある仕事をしたかで計られるべきものだ。ただ漫然と生きる80年より、樋口一葉(1972~96.小説家)の生きた24年、正岡子規(1867~1902.俳人・歌人)の生きた35年のほうがはるかに重たい。
ついつい我々は、人間80、90まで生きるのが普通であるとの先入観からか、そこまで齢を重ねずしてこの世を去る人の人生が、あたかも不幸にして十全なる価値を生み出さなかったかのような語り方をしてしまうことがある。
自分の人生を精一杯生き抜いたにもかかわらず、生存期間が平均より短いというだけで「志半ばにして倒れた」などという評を草葉の陰で耳にしては、とても故人は浮かばれまい。
校長 中村三喜
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2024年9月17日(火)
9.17(火)自分の頭で考える
2024年9月17日(火)
生徒の皆さんへ
「自分が努力する。自分の頭で考える」
人間の一生にはいろいろなことがあるが、世間で「努力が好き」という人がどれだけいるだろうか。大方の人は、努力なんて辛い、嫌いだ、楽をして大きな成果をつかみたいものだ、と考えるのではないだろうか。
私も若い頃、その意識が強かった。ただ、その後、大勢の人に出会い、世の中を見渡した時、感動させられるような素晴らしい仕事をした人で努力をしていない人はいないことに気づかされた。
だからといって眉間に皺を寄せ、歯を食いしばって、頑張って努力するというものとも違うのである。彼らは、そうせずにはいられないからつい一日中働いてしまったというように、努力が苦にならず生活習慣になってしまっているのだ。
例えば、毎日一時間本を読む習慣を身に付ければ、1年では365時間、全く読まない人とは大きな差がつくことになる。若いうちに「努力」という習慣を身につけて欲しいと思う。
また、難しい問題にぶつかった時、ギブアップするのは簡単だしラクだ。しかし、そこでギブアップしてしまったら、今まで頑張ってきた自分の努力を裏切ることになってしまうのではないか。
仕事でも、勉強でも、成し遂げる人とそうでない人の分かれ道は、諦めるか諦めないかの違いだけである。つまり、世の中を生きていく上で重要なことは、能力とか才能とかではなく、最後まで諦めないで頑張る(=努力する)ことなのである。
もう一つ、是非習慣にして欲しいことがある。それは「自分の頭で考える」ということである。新聞、雑誌、テレビ等々、世の中には情報が溢れている。また、インターネットやスマートフォンでキーワードを入力すれば、一瞬にして回答が得られる時代だ。しかし、そんな周りから与えられる情報を鵜呑みにしているだけだと、金輪際「自分の言葉」は育たない。そして、すぐ人に聞くなどして安易に答えを求めていては、いつまでたっても自分の力にはならない。
誰かに教えてもらった答えなんて、なんとなく「わかった気」になるだけで、自分なりの考えや答を生み出す力にならないことを肝に銘じておこう。
校長 中村三喜
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2024年9月13日(金)
9.13(金)もの思う物たちへ
2024年9月13日(金)
生徒の皆さんへ
「もの思う物たちへ」
私たちの周りにあるたくさんの物、それら一つひとつの物には人と同じように心があると考えればどうだろう。
机にうず高く積まれた本たちにマイクを向ければ、「いつになったら読んでもらえるのか待ちくたびれています」という声が返ってくるかもしれない。
海底に眠るプラスチックごみに話を訊けば、「自分はこんな所に来るつもりはなかった。魚に危害を与えるつもりもない。早く居るべき場所に戻してほしい」と言うのではないか。
元々自然のものすべてに神がいるというのが日本であり、日本人は物を大切にする。「もったいない」の精神だって健在である。
ただ物を持つことが豊かさの象徴となり、日本人の幸福感を高めたのはよいけれど、質の向上、量の過剰、嗜好へのこだわりが、始末する上で困難な世の中になっては意味がない。物には寿命がある以上、すべてを適切に処理するためには、半永久的な努力が必然だろう。
人間だけではない。時にはもの思う物の気持ちになって、適切な処遇に心したい。
校長 中村三喜
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2024年9月12日(木)
9.12(木)背負う
2024年9月12日(木)
生徒の皆さんへ
「背負う」
人は誰もが重荷を背負って生きている。たとえば、国中の期待を背負って戦うアスリートや、命のために一刻を争う医療チームの姿には頭が下がる。
一方、重圧には見えなくても、家族を守る、組織の任務を遂行する、伝統の技術や文化を継承するといった責任を全うすることだって、実は大変な重荷ではないだろうか。
身軽な生き方を望んでいたつもりが、境遇や性格に左右され、気がつけばいろいろなものを背負っている。手放したいものもあるが、もはや背負うこと自体が生き甲斐となっている。案外、人生とはそういうものかもしれない。
時には重さに耐えかね荷を軽くしたくなることもあろう。しかし、それでは結局他人の荷を重くするだけだ。心掛けたいのは、自分の荷はしっかり背負い、他人の荷を見れば少しでも軽くしてあげる心の持ち方を鍛えることではないだろうか。
背負い続けていれば苦しみや悲しみは日毎訪れる。だからこそ互いに励まし合う心根も養いたい。荷の重さは変わらなくても、少しは心が軽くなるに違いないから。
校長 中村三喜
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2024年9月11日(水)
9.11(水)一つひとつ
2024年9月13日(水)
生徒の皆さんへ
「一つひとつ」
仕事でもプライベートでも、目の前に壁が立ちはだかったような困難が時に起こる。ことに原因が複雑で、何から手をつけてよいかもわからない場合は深刻である。
途方に暮れて、援助を求めたら、タイミングよくすぐさま誰かが助けに来てくれる、というのはフィクションの世界であろう。いくら一大事だと叫んでも、仔細を知っている人でない限り、協力者には成り得ない。
結局、何を優先して困難を打開するかを判断できるのは、現実に直面している自分しかいないのである。だとすれば、まずは自分自身で対処するのだと心を定め、粛々とことに当たるのが常道ではないだろうか。
一気に解決すべく無理をすると、また次の無理が生じてくる。どんなに入り組んだ難事難題であろうが、因果関係を丁寧に解きほぐしていくところに手だても見えてこよう。
一つひとつ、自分に為し得ることを着実に遂行することである。誠実に対応する姿勢に徹すれば、事態は必ず動いて展望も開けてくるに違いない。
校長 中村三喜
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2024年9月10日(火)
9.10(火)目の前の仕事
2024年9月10日(火)
生徒の皆さんへ
そろそろ秋の虫が鳴き始める季節となってきました。皆さんもこれまでの暑さから少しは解放されるでしょう。その変化に合わせて皆さんも変化しましょう。
夏休みの残り20日間を有意義なものにしましょう。これまで充実した休みを送ってきたと思える人は、それを最後まで続けましょう。不十分の休みを送ってきてしまったと思える人は、残り20日間で取り返しましょう。
それができるかできないかは、皆さんの気持ちの持ち方次第です。皆さんはこの世の中でただ一人の人なのですから、皆さんに代わる人はいないのです。だから、皆さん自身が取り組まなければ、皆さんの進歩も前進もないのです。
ここまで来たら、言い訳などせずに頑張ってみましょう。結局は、それが充実した夏休みと思える結果をもたらすのですから。
「目の前の仕事」
“この仕事は向いてない““自分の求めている仕事とはちょっと違う”。そんな決断を下して職を替える人も多いと思う。
誰もがそれぞれの適性を発揮できる仕事を得られれば、これほど喜ばしいことはない。けれども、最初から天命の職と思える仕事に就くのは稀有のことと言えよう。
とはいえ職を転々としても、適性がさらに活きるとは限らず、ミスマッチの連続という状況に陥ることもある。
では、自分の適性を見極めるにはどうすればよいのか。一つ確かな方法は、余計なことは考えず、今、目の前の仕事に精一杯の努力を尽くすことである。
その仕事が適性にあうものかどうかは分からない。それでも本気で取り組むうちに予期しなかった面白みが生まれ、天職との出会いになる可能性もある。何より、全力を傾けた自分自身に満足できることは間違いない。
常に迷いを抱いて仕事を品定めするよりも、与えられた仕事に傾注し、きょうの充実感を味わう。それがより確かな人生の歩みにつながるのではないだろうか。学びの場合も同じだと思う。
校長 中村三喜
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2024年9月9日(月)
9.9(月)志を問う
2024年9月9日(月)
生徒の皆さんへ
「志を問う」
中国は三国志の時代、蜀の天才軍師諸葛孔明が、ある一戦に国の興亡をかけて、あらん限りの知略を立てた。それによって、蜀軍は大いに敵軍を打ち破ることができたのである。
味方の諸将が意気揚々と自分の功を報告する渦中、名将趙雲は最後に帰陣するなり、ひざまずいて孔明に詫びた。「あなたからこれほどの策をいただきながら、肝心の敵の大将を討ちもらしました」と。
小さな戦果を誇張する将が多いなか、最も功があった趙雲が孔明の無念を思い、自身も慚愧する様を見て、孔明はあらためてその志の高さに感嘆したという。
何事においても、その終わりには、様々な結果が出る。目標を達成できた歓喜、手が届かなかった悔しさ、感慨は人それぞれあろう。
そこで、忘れたくないのは志である。小さな業績を評価しないというのではない。ただ、何事の終わりには、己の志をふり返り、足らざる自分を総括し、猛省を促すべき大切な時ではないだろうか。次に取り組むべき課題の飛躍を期すればこそ、わが志を問い直したいものである。
注記:三国志(さんごくし、三國志)は、中国の後漢末期から三国時代にかけて群雄割拠していた時代(180年頃 – 280年頃)の約100年に亘る興亡史であり[1]、蜀・魏・呉の三国が争覇した三国時代の歴史を述べた歴史書でもある。著者は西晋の陳寿(233年 – 297年)(詳しくは『三国志 (歴史書)』を参照)。
校長 中村三喜
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2024年9月6日(金)
9.6(金)奇跡
2024年9月6日(金)
生徒の皆さんへ
「奇跡」
細胞1個が生まれる確率は、1億円の宝くじが連続して百万回当たるようなものだという(村上和雄・筑波大学名誉教授)。それが人間には60兆個もあるのである。
これはまさに奇跡というしかないだろう。お互いがこの世に生を享け、生きているのは当たり前のことではなく、文字どおり有り難い、きわめて稀なことなのである。
誰でもさまざまなことに悩み、落ち込んだり、時に困難に出遭って進退窮まるといった状況に陥ることがある。
そんなときは、自らの存在を客観的に見つめ、一人の人間として生かされている不思議に思いを馳せてみてはどうだろうか。自ずとありがたいという感情が湧きあがってきて、小さなことにくよくよしたり、悩んでいたことが馬鹿馬鹿しくなってくる。困難に際してどう生きていくべきかも冷静に考えることができよう。
この70億人が住んでいる地球上に自分という人間はたった1人なのだ。そして、ここにこうして、今、生きている。この奇跡、その素晴らしさを思うと、悩むことは何もないのではないだろうか。
校長 中村三喜
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2024年9月5日(木)
9.5(木)我が一歩
2024年9月5日(木)
生徒の皆さんへ
人からの教えを聞いているだけは楽です。AI(人工知能)の示す答えを暗記しても、身につきません。自ら考えたり調べたりするのは苦しいことですが、身につくのです。
どちらが自分を成長させますか。人生にとってどちらが役に立ちますか。私たちが目指すのは「生きる力」を養うことです。だからこそ、自分のペースで何事も続けて身につけることが大事なのです。
「我が一歩」
さまざまなことが次々に起こって、何かと気ぜわしい毎日である。身の回りのできごとから世界のニュースまで、テレビや新聞、あるいは周囲の人を通じて伝わってくる情報は、数限りがない。
世の中の激しく大きな変化についていくためには、その一つ一つに興味、関心を持つことが欠かせない。けれども、合わせてやはり大事なのは、いま自分のなすべきことをしっかりつかみ、それを実践する努力を、日々、着実に重ねていくことであろう。
ともすれば情報の洪水に流されてその渦に巻き込まれ、自らがなすべきことを怠ってはいないだろうか。次々と起こる出来事に追われるまま一日が終ってしまって、なすべきことはまた明日、というような日を、心ならずも繰り返してはいないだろうか。
慌ただしい毎日であればこそ、我が一歩一歩の大切さを強く自分に言い聞かせたい。千里の道もやはり一歩から始まって、急がず休まず怠らないことが、向上発展をもたらすのである。
校長 中村三喜
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2024年9月4日(水)
9.4(水)意味
2024年9月4日(水)
生徒の皆さんへ
「意味」
この世の中に起きること、人生で起きることにはみんな意味があるというけれど、どうしてもその意味を見出せないときがある。なぜこんな辛い思いをしなければならないか。いくら考えても、納得のいく答えは得られない。
ただ一ついえるのは、自分が生きてここにいるのは、選ばれてこの世に生を享け、生かされているということである。だから、たとえ絶望の淵に沈んでも、命ある限り人は生き続けなければならないのである。
事態がすぐに変わることはないだろう。しかし、人間には、どれほど厳しい試練でも、それを乗り越え、未来を切り開いていく力がある。関東大震災、阪神淡路大震災、東日本大震災、コロナウイルス感染問題、能登半島地震など、過去、幾多の先人が、数々の惨禍から立ち上がり、復興を成し遂げてきた。
生きていることがいかに貴く、幸運かを改めて心に刻み、自分にできることに精一杯取り組んでいきたい。そうすれば、挫けずに頑張ってきてよかったと心から思える日が、きっと来るはずである。
その時にはじめて、自らの人生において、今の苦境に出遭った意味がわかるのだと言えよう。
校長 中村三喜
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2024年9月3日(火)
9.3(火)引き受ける
2024年9月3日(火)
生徒の皆さんへ
「引き受ける」
学校や職場、日常生活で、周囲の人に何か事を頼まれる。あなたを見込んでとか、君にしかできないと言われたら、自信がなくても、つい引き受けてしまうのがお互い人間の一面だろう。
そしてともすると、やっぱり自分の力量では無理だ、断ればよかったと悔やむことになる。約束に期日が近づくにつれどんどん気が滅入ってきて、現実から逃げ出したくなる。
だが、よく考えてみれば、あてにされるうちが花だ。声がかからなくなったら確かに楽にはなるけれど、一方できっと淋しくなるに違いない。
だから、いったん引き受けたからには後悔したり、逃げ出したりするのはやめよう。一度逃げてしまうと、次もまた逃げ出してしまう。そうなっては、そのうちに信用を失って、もう誰も頼ってくれなくなる。
これは自分の可能性を拡げる絶好の機会が与えられたということだと思う。頼りにされたことを意気に感じ、その期待に応えるべく、とにかく精一杯取り組みたい。
そうしてこそ成果もあがり、みずからの新たな力、成長の糧となっていくのである。
校長 中村三喜
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2024年9月2日(月)
9.2(月)ものさし
2024年9月2日(月)
生徒の皆さんへ
「ものさし」
自分の何気ない言葉や振る舞いが、意に反して人の心を傷つけたり、嫌な思いをさせたりすることがある。そのことにすぐに気が付けば詫びることもできるけれど、往々にして気づかない。
相手が面と向かって抗議してくれればまだいい。ほとんどの場合、気分を害しても、それを口に出さず黙っている。そしてその裏でデリカシーに欠けた人、思いやりのない人だと反発し、心を閉ざす。そうなっては人間関係の修復はなかなか難しい。
世の中にはいろいろな人がいる。他人には思いも及ばぬ事情、悩みを抱えた人や、自分とまったく違うものの見方、考え方をしている人もいる。同じ物事でも受け取り方、感じ方はさまざまだ。たとえ悪気はなくとも、自らの不用意な行動や一言が人を不愉快にさせかねないのである。
「自分がこう思うのだから、人もこう思うはず」ではなく、みんな違うという前提で考え、行動し、言葉を発することが大切だろう。自分のものさしと他人のものさしは異なるということを、常に心にとどめていたい。
校長 中村三喜
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2024年8月30日(金)
8.30(金)心を楽に
2024年8月30日(金)
生徒の皆さんへ
夏休みは期末休みも含めて今日で約3分の2が終了です。これまでを振り返り、そのまま休みの後半を迎えればよい生徒、これまでを反省して気持ちを入れ替えて後半を迎えようとする生徒など様々でしょう。それでいいと思います。誰もが休みの後半がそれまでより充実したものになればいいのですから。
事に当たる時に大切なことは「続ける」ことです。後半の目標を決めたら、それを続けることです。自分のペースを守って、頑張り続けることです。「うさぎと亀」の亀のように、焦らず、休まず、サボらず、続けることです。
健康にはくれぐれも注意してください。
「心を楽に」
やらなければいけないことが沢山あるのに、自分の力不足のため思うように進まない。気ばかり焦ってどれもこれも中途半端。自分の力のなさ、不甲斐なさに嫌気がさし、自己嫌悪に陥ってしまう。そんなときがないだろうか。
もちろん、やるからには完璧を期することは大切である。最初から適当でよいなどと考えていたのでは、できるものもできなくなるし、たとえできたとしても満足のいく成果は得られない。
だが、完璧を求めすぎて逆にそれがプレッシャーとなり、精神的にまいってしまっては元も子もない。
なすべきことはきちっとなそうという気持ちは持ちつつ、一方で、「神ならぬ人の身なのだから、完璧などあり得ない」「少しぐらいできなくても大勢に影響はない」と。ちょっと肩の力を抜いてみよう。
心を楽にして、できるところから一つ一つ取り組み、着実にものにしていけばよい。そうすれば次第に早く、うまくできるようになって、少しずつ自分が思い描く姿に近づいていく。おのずと自信にもつながってこよう。
校長 中村三喜
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2024年8月29日(木)
8.29(木)叱ってもらえる幸せ
2024年8月29日(木)
生徒の皆さんへ
以下は、私の尊敬する(株)松下電器産業(現:パナソニック)の創業者で、経営の神様とも称される世界的に有名な松下幸之助翁(1894年〈明治27年〉11月27日 – 1989年〈平成元年〉4月27日)の言葉です。「叱ってもらえる幸せ」
叱ってくれる人を持つことは大きな幸福である。叱ってくれ手のないことは寂しいことである。どんな人でも、より多く叱ってもらうことにより、進歩向上が得られるのだ。
叱られて反感を持ち、不愉快な態度を示すことは、再び叱ってもらえる機会を失うとともに、自己の進歩はもうそれで行き詰まりとなる。
叱ってもらうことは自己向上の一大資源であることを感じて、これを受け入れてこそ、そこに効果が生まれるのである。
人は叱ってもらうことの尊さを知り、叱られることに大いなる歓びを感じる境地に到達しなければならないと思う。
校長 中村三喜
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2024年8月28日(水)
8.28(水)行動しないとダメ
2024年8月28日(水)
生徒の皆さんへ
「やっぱり行動しないとダメ」
現在、日本の若い人の間には「どうせうまくいかないんじゃないか」という閉塞感漂っている。ひたすら考えたり悩んだりしている人は少なくない。考え抜いて諦める人もいる。でも、やっぱり行動しなければだめだ。
日本の社会は情報で溢れかえっている。スマートフォンをちょっと覗けば失敗例はいくらでも見つかる。何がリスクか、何が問題かも直ぐにわかる。失敗を避けるための情報が溢れている。ただ、情報を集めるのは簡単になったものの、自分の力で考えるのが面倒くさい行為になってきてしまったように見える。
こんな時代だからこそ考えることはとても大事になのだ。行動は思考の結果であるとともに、新しい考えに到達するためのヒントにもなる。若い人たちは可能性の塊なのだから、自分から制約してはもったいない。
「便利」「早い」と普及しているスマホでの短い表現には、豊かな語彙や状況に応じた柔軟な表現は望むべくもない。緻密な思考や論理も不在がちだ。スマホの使用頻度が高いほど、大学生の語彙レベルは中学生並だとの指摘もある。
だが、これは大学生に限ったことではない。ITの発達、すなわち便利さの追求によって大事なものが失われ、「考える葦」である人間ならではの力の衰退になりかねない。
このことを自覚し、これを補完することは家庭や学校教育の課題であり、個々人も心すべき問題である。手間暇をかける言語活動が考える力を育み、脳を活性化させ、より深い思考を可能とするからだ。
校長 中村三喜
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2024年8月27日(火)
8.27(火)あなたは尊い
2024年8月27日(火)
生徒の皆さんへ
「あなたは あなたであることにおいて尊い」
お釈尊様は、すべての命が等しく尊いことを私達に教えてくれた。私の命は、天にも地にもこの世の中にたった一つしかない、かけがえのない命であるからこそ尊いのだ。また、私の命が尊いということは、他の命もみんな等しく尊いということになる。しかも、無条件であるがままで尊いのだ。誰とも代わることができない存在として、この命のままで尊いのである。
決して、他者と比べて自分の方が尊いなどと優劣がつけられるものではない。人は、自分と他者をどうしても比べてしまいがちだ。そして、他者を羨ましく思うことが往々にしてある。時には、自分は価値のない存在だと思うことさえある。しかし、改めて自分自身を見つめ直してみれば、自分のいいところが必ず見つかるものだ。
他者とは比べることのできない尊い私の命に気がつくはずだ。
そして、それぞれの命は輝きを持っている。花は、それぞれ青い花は青い光を放ち、黄色い花は黄色い光を放ち、赤い花、白い花・・・すべての花は、自らの色そのままで光り輝いて咲いている。「色」は「個性」と言い換えることができる。
その個性が光り輝くこと、私が私の色で輝くことが尊いことなのだ。他者と比べる必要などまったくない。私が私らしく生きること、その個性を大切にし、他者の個性を尊重することによって、すべてのものが輝くことができる。
私が私であるがままで認められる世界、全てのものが等しくそのままで受け入れられる世界、そのままで光り輝ける世界を真実の世界と言うのではないだろうか「あなたは あなたであることにおいて尊い」そういう眼差しで本当の自分自身に出遇うことができたならば、そして、同時に自分の周りにある全ての尊い存在に気がつくことができたならば、その時は必ず、真実の世界に触れることができるのだと思う。校長 中村三喜
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2024年8月26日(月)
8.26(月)応援歌
2024年8月26日(月)
生徒の皆さんへ
「応援歌」
メロディーが流れてきた瞬間、それが流行っていた頃のことや、耳にしたときの情景が鮮やかに蘇る。そんな歌が、お互い一つや二つあるのではないか。
悲しいとき、ふと寂しくなったとき、人は歌を口ずさむ。そして、遠い過去やふるさとに思いを馳せたり、歌に我が身を重ねて涙する。すると、暗く沈んでいた心がいつの間にか浄化され、少しずつ軽くなってくる。歌はそうした不思議な力を秘めているといえよう。
歌に限らない。そこに立ち返ればおのずと慰められ、励まされる何かを、誰もが持っているはずである。くじけそうになったときにはそれに思いを寄せ、しばし浸ってみればいい。そんなふうに疲れた心を労り慰めることで、再び前を向いて歩きだすことができるに違いない。
人はどんなときも自らの心を奮い立たせつつ、まさに命が尽きるその瞬間まで歩み続けなければならないのである。大切な思い出を糧に、人生の応援歌を胸に、今日も明日も、今年も来年も。
●私の好きな歌は、以下の3曲です(理由は秘密)
1,「赤とんぼ」作詞:三木露風、作曲:山田耕作、大正10年発表。
2.「リンゴ村から」作詞:矢野亮、作曲:林伊佐緒作詞、歌:三橋美智也。
3.「月の砂漠」作詞:加藤まさを、作曲:佐々木すぐる。校長 中村三喜
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2024年8月23日(金)
8.23(金)出会い
2024年8月23日(金)
生徒の皆さんへ
お盆も過ぎ、いくらか暑さも変わってくるでしょう。8月は残すところ1週間となりました。ここで今までの休みの過ごし方を振り返って、さぼってしまったものがあれば、取り返しましょう。そのままにしておくと、それが癖になり、常に言い訳をするような人間になってしまいます。だから、心を入れ替えて、さぼってしまった分にチャレンジするのです。本校の生徒にできないはずはありません。自分のペースを守って頑張ろう。
「出会い」
多くの人が新しい環境での第一歩を踏み出す季節は、ついこの間通り過ぎてきた春。職場や学校で、勉強や仕事で、あるいは同僚や仲間とのさまざまな出会いが待っていたのではないか。
それが期待通りのものとは限らず、時として苦手な仕事や、虫の好かない人との出会いになる場合もあろう。
だが、出会うべきときに、出会うべき人や物事に出会うと言われている。人も仕事も、みな何らかの意味を持って出会っているのではあるまいか。
4ヶ月余が過ぎた今、自分には向かないと思っていた仕事や勉強が、やってみると面白く、それまで知らなかった自分の適性を発見できるかもしれない。ともに過ごすうちに、その人からいろいろな気づきや刺激が得られ、生き方、考え方が変わることもある。出会いは自らの可能性を広げ、成長するチャンスなのである。
その貴重なチャンスを生かすも殺すも自分次第。しりごみせず、新しい環境に積極的に飛び込んでいこう。そこからまた新たな出会いが生まれて、仕事の幅も学びの幅も人の輪も更に大きくふくらみ、毎日がより豊かになっていくに違いない。
校長 中村三喜
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2024年8月22日(木)
8.22(木)家族や地域が変わった
2024年8月22日(木)
生徒の皆さんへ
「家族や地域が変わった」
60年代以降の日本は高度経済成長期が続く中、日常の生活は豊かで便利になった反面、文化や心の問題がおざなりにされてきたのが、戦後日本の姿である。
経済成長に伴って父親は残業で家に帰らず、子供たちも受験戦争で塾に通い、帰ってもすぐ自分の個室に入ってしまう。夕食はバラバラになり、一家団欒がなくなってしまった。
家族の次には地域社会が崩壊した。かつては子供たちが外に出れば近所の怖いおじさんや豆腐屋のおばさんに声をかけられ、いろんなことを教えてもらった。でも、そうしたつながりは面倒くさいものとして避けられるようになってしまった。アパートはマンションになり、今ではオートロック。外部の人が気楽に入れなくなり、隣近所との付き合いもなくなっていく。
今は、コンビニや自動販売機で、話をしなくても買い物ができる。スマホやパソコンを使えば、外に出る必要もない。いっさい言葉を発せずに暮らすことができる。人間への関心は薄れ、スマホや携帯のメールだけでやり取りする。子供たちは社会的なつながりを知らないまま大人になっていく。これでいいのだろうか。それでいいのだろうか。校長 中村三喜
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2024年8月21日(水)
8.21(水)苦難を味わう
2024年8月21日(水)
生徒の皆さんへ
人生は、困難や苦悩の連続と言ってもいいかもしれない。だからこそ、それを乗り越えた時の喜びは大きい。そして、生徒の皆さんは意識していないだろうが、知らず知らずのうちに、その経験が積み重なって、自分を成長させる。皆さんが大人になった時、その経験が充実した人生に不可欠であることを実感すると思う。
「苦難を味わう」
人はときに困難に出会い、逆境に陥る。それにどう向き合うのか。そのことによって、その人の真価が決まるといえる。
志をなくして自棄を起こすのか、他を当てにして助けを求めるのか。それとも捲土重来を期して、なすべきことに打ち込むのか。いずれを選ぶかによってです。
志を失い、ただ不平不満を募らせていても、逆境から抜け出すことはできない。また、自らはなんの努力もせずに、他人に頼るというような人に、誰も力になってはくれまい。
だとすれば、辛いことではあるが、一度その境遇にどっぷりと浸り味わってみる。そして、頼れるのは自分だけと覚悟して、なすべきことをなしていくことである。
すると案外、苦しみが思ったほどではなかったり、むしろ、そこにやりがいや楽しみが感じられてくることもあるのではないか。さらにそんな真剣な姿には、周囲の協力も自ずと集まってこよう。
身に降りかかった困難、苦難に身を委ね、楽しみ味わえば、それをバネとして、さらに人間として一回り大きく成長できるに違いない。校長 中村三喜
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2024年8月20日(火)
8.20(火)旧友
2024年8月20日(火)
生徒の皆さんへ
「旧友」
お盆で帰省してきた旧友との再会。不思議なもので、どんなに離れていても、どんなに久しく会っていなくても、一瞬のうちに心は昔に帰り、思い出話に花が咲く。日々の張りつめた心がいつしか癒され、解き放たれていく。しばし旧交を温めて、次に会うまでの互いの息災を祈り、精進を誓い合う。
だが一方で、再開を約しても、いつまた会えるのか、もしかするとこれが最後かもしれないという思いに時として襲われることがある。実際、そうした危うい土台の上に人生は立っているのではないか。
一年経てば、親しい友も自分も、確実に一つ年をとっていく。それが自然の理である。そう考えれば、こうして今年も無事、相まみえたことが限りなく嬉しく、かけがいのないひと時に思えてくる。
日常に追われ、周囲の誰もが自分のことで精一杯。そんな中でふと感じる寂寥感。そのような時、自分をありのまま受け入れ、同じ時を過ごしてくれる友がいることは、お互いの人生において深い意味を持っているのではないだろうか。校長 中村三喜
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2024年8月19日(月)
8.19(月)旬
2024年8月19日(月)
生徒の皆さんへ
「旬」
若い頃は徹夜も平気だったのに、今では少し無理をすると、何日も疲れが残ってしまう。以前はすんなり記憶できたことも、今ではなかなか覚えられなくなり、覚えてもすぐ忘れてしまう。
人は誰でも、年を取るにつれ、それまで難なくできていたことが徐々にできなくなっていく。しかし一方で、齢を重ね、さまざまな経験を積んでいくなかで、分かるようになったり、見えるようになったりするものも増えていく。だから、今になってはじめてできることも、たくさん生まれてきているはずである。
できる、できないと一喜一憂することはない。食べ物に旬があるように、人間の人生にも何かを行うに最適の時機があるのではないか。そうしたその時々の自分にとっての旬をとらえ、今だからこそできること、今しかできないことを逃さず、それに精一杯取り組んでいくことが大切なのであろう。
そこから、それまでできないと思っていたことを可能にする新たな力が湧いてくるに違いない。それは年寄りの強がりだろう、と笑ってもらっていいのですよ。
追:今日は私の誕生日です。めでたく満80歳を迎えました。でも気持ちはそこまでの年齢になっているとは思っておりません。それだけに、気持ちと体のギャップに気をつけながら、これからも生徒のためになるように頑張ります。校長 中村三喜
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2024年8月16日(金)
8.16(金)地獄と極楽
2024年8月16日(金)
生徒の皆さんへ
「地獄と極楽」
昔、ある武家が白隠禅師に、地獄と極楽とはどこにあるのかと尋ねた。すると禅師は、武家のくせに死後のことを騒ぎ立てるのは臆病者だと大いにからかった。
激怒した武家が刀を抜いて、禅師を切り捨てようと振りかぶったその時、「それが地獄じゃ」と禅師が叫んだ。はっと我に返った武家が刀を収め謝罪すると、禅師は、「今のが極楽じゃ」と諭したという。このように地獄や極楽は我々の心の中にあり、絶えず入れ替わっているのである。
誰でも地獄よりは極楽の方に行きたいはずだ。けれども、日々、様々な事件が取り沙汰されるのは、事件を起こした人と同じ数だけの人がつい地獄に心を寄せられたからではあるまいか。
対岸の火事と思っていても、いつどんな関わりで地獄の淵に立つか分からないのが世間というものであろう。
心とは1日に何千回も移りゆく。常時平穏でいることは困難に違いない。しかし、たとえ地獄に取りつかれても、必ずすぐに極楽に戻ってこられる。そんな心がけを確立したいものだ。注記:白隠慧鶴(はくいん えかく)
1686年1月19日(貞享2年12月25日) – 1769年1月18日(明和5年12月11日))。臨済宗中興の祖と称される江戸中期の禅僧。諡は神機独妙禅師、正宗国師。校長 中村三喜
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2024年8月15日(木)
8.15(木)思い出
2024年8月15日(木)
生徒の皆さんへ
「思い出」
再び、お盆の時季に関係しての私の話しで恐縮です。
誰にでも思い出の「味」がある。特に幼いころに、母が、祖母がつくってくれた、忘れがたい手料理やおはぎの味。大好きだったその味がもう味わえないとなったとき、人は懐かしさとともに、心にぽっかりと穴が開いたような淋しさを感じる。
味だけではない。顧みれば、楽しかったこと、嬉しかったこと、大切な人とのさまざまな思い出がある。そして、それらが多ければ多いほど、二度とその日が返ってこないことに寂しさを覚えるのである。
そんなとき、むしろ思い出など初めからないほうがよかった。そうすれば、こんなに寂しさを感じなくてすんだのに、という思いにさいなまされるかもしれない。
確かに失ったときの喪失感は大きい。だがそれでも、心に残る思い出があればあるだけ、人生は豊かになるのではないか。それらは自分を愛してくれる人がいたという証しであり、これからを生きる温かい励ましにもなり、力ともなろう。
懐かしい思い出を大事に抱きつつ、今年もまた周囲のかけがいのない人たちとの新たな思い出を一つでも多くつくっていきたい。校長 中村三喜
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2024年8月14日(水)
8.14(水)原風景
2024年8月14日(水)
生徒の皆さんへ
「原風景」
私は1944年の生まれですので、今月19日を迎えると満80歳になります。そして、それはお盆の時季でもあるので、久しぶりに昔よく通った道や遊んだ場所を歩いてみると、幼い頃の記憶がよみがえり、懐かしさや、すっかり変わってしまった風景への哀惜、もう二度とあの頃には戻れないのだという寂しさなど、さまざまな思いがこみ上げてくる。
同時に、家族や友だち、その時身近にいてくれた人たちの姿や言葉が思い出されて、それらが自分の物の見方や考え方の原点になり、今日まで折々に支えとなってきたことに改めて気づかされる。
変わりゆく時代の中で、人は時に過去をたどり、いつまでも変わらない自らの原風景に立つ。そうすることで自分を確かめ、明日に希望をつないで、新たな人生を紡いでゆけるのだろう。
そして、自分の生きた証もまた決して消えることなく、必ず誰かの心の風景に刻まれてゆくはずである。できることなら、その人が苦しいとき、迷ったときに立ち返る拠り所となって、勇気を与えられるような、そんな生き方をしてゆきたい。
周囲の大切な人たちの心に、自分はどんな風景を残すことができるのだろうか。校長 中村三喜
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2024年8月13日(火)
8.13(火)供養
2024年8月13日(火)
生徒の皆さんへ
今週は「お盆」の週です。皆さんは知っていますか。「お盆」は、正式には盂蘭盆会(うらぼんえ)と言って、旧暦の7月15日ごろ、新暦の8月15日前後に先祖の霊を迎えて供え物をし、冥福を祈る仏教の行事です。「精霊会(しょうりょうえ)」とも言います。
「供養」
蝉時雨(せみしぐれ)のなか、亡き人の霊を迎え、供養するさまざまな行事が各地で行われる。八月は、これまで縁のあった人達に思いを致し、対話することで、自らの過ぎし日を振り返り、これからのあり方を改めて心に誓う月でもある。
亡き祖父母や父母兄弟、子に恥じないようにと、我が身を省み、律していく。それが亡くなった人への供養となり、自身の生きるよすがになるのであろう。
人間はいくつになろうと、子は子であり、親は親である。そうしたつながりは遠い過去から続いてきたもので、子々孫々よかれかしと、大切な人の幸せを祈る人間本然の思いが連綿と流れている。
そんな切なる願いを、お互い現世に生きる者は誰もが受けているのである。そのことを忘れなければ、今は亡き人もみな自分の幸せを願い、励ましを与えてくれる確かな存在として、自分のなかで生き続けるにちがいない。
いつも見守ってくれている人がいる。決して独りではない。これほど心強く、勇気づけられることはないと言えるのではないか。
注:明治5年に日本では、暦の国際基準化を目的として改暦が実施されました。したがって、それ以前は旧暦、以後は新暦と呼ばれています。改暦に伴って日本の各行事は30日遅れとなりました。お盆も同様です。ただし、東京の大部分と全国の一部の地域では旧暦の7月15日前後に、対して全国の大部分は新暦の8月15日前後にお盆を迎えています。校長 中村三喜
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2024年8月12日(月)
8.12(月)サッチャー
2024年8月12日(月)
生徒の皆さんへ
「多数に追随するな自分自身で決断せよ」(マーガレット・サッチャー)
私は「鉄の女」と呼ばれたイギリスの元首相・サッチャーが好きだ。
彼女は「英国病」と言われるほどの不況だったイギリスを立て直すべく、企業の民営化や税制改革など様々な施策を打ち出した。どれも多くの反発を受けたが、断固としてやり抜き、イギリスの威信を復活させたのだ。
サッチャーが強かったのは自分のためではなく、常に国民のためを思って決断していたからではないかと思う。
自分で自分の人生を決断し、主体的に動く力を「自己決定感」と言う。「自分のやりたいようにやる」だけでは単なるわがままだ。自己決定感の高い人は「社会の中にいる自分」を意識する。
「この行動によって、まわりの人が幸せになるのか」と考えた上で、自分の行動を決める。たとえ失敗したとしても、「決めることができた自分」に自己肯定感が高まる。
迷ったときは、心の中で「偉人」を思い浮かべるのもお薦めだ。あの偉人ならこう考えそう、と思うと少し道が開けてくるのではないだろうか。
まずは自分で決断してみましょう。校長 中村三喜
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2024年8月9日(金)
8.9(金)パトリック・ハーラン
2024年8月9日(金)
生徒の皆さんへ
「パトリック・ハーラン」
日本は、生きていく上でとても恵まれた国である。治安はいいし、清潔だし、まだ世界4位の経済大国である。おまけに今は労働力不足だから、仕事もたくさんあるはずだ。もちろん、すべてが高給取りの仕事とは限らないが、楽しいことはやらせてもらえるのではないだろうか。
もっとも、気楽といっても、何の準備もせずに、ハンモックに寝転がってぼんやり空ばかり眺めていては駄目です。チャンスがきたとき、しり込みしないために、勉強したり、スキルを磨いたり、普段からその時のために備えておく、という前提が必要になる。
準備さえしておけば、いざ、話が来たときにも応えられているし、応えている自分が好きになって、もっと頑張ろうという気になる。
気楽に楽しく暮らしている人はそれなりに努力して勉強しているものです。人生は気楽に生きられるし、何とかなるものですが、そんなふうに生きたいのなら、そのための準備は怠ってはいけないということである、と彼は言っているのです。
注記:パトリック・ハーラン(Patrick Harlan、1970年11月14日生まれ )
アメリカ・コロラド州出身。役者志望だったこともあり俳優や声優としても活躍している。流暢な日本語を生かしDJやMC、ナレーターもこなし、吉田眞とお笑いコンビ「パックンマックン」を結成する。「パックン」として日本語ではボケ、英語ではツッコミを担当。
パトリックは母子家庭で育ったため家計が貧しく、アメリカの生活保護を受けていたが、それが屈辱的であったと言う。綺麗に映るテレビがなく、お金のかかる趣味やスポーツもできなかったことから読書することが趣味になり、それが優秀な学力に結びついたと語っている。10歳からハイスクール卒業まで8年間、新聞配達などのアルバイトをして家計を助けていた。
ハーバード大の入試の面接において、8年間休まず続けていた新聞配達が面接官の一人に評価されて、強くプッシュされて合格できたという。高校までは上位1%に入るほどの優秀な成績であったが、ハーバード大では自分以上に優秀な生徒ばかりが通っていることにショックを受け、「自分が得意なこと」「自分が不得意なこと」を考えて取捨選択することの大切さを学んだという。校長 中村三喜
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2024年8月8日(木)
8.8(木)過去
2024年8月8日(木)
生徒の皆さんへ
nbsp;「過去」
心が沈んだり辛くなったりしたとき、人はよく「あの頃はよかった」とか、「もう一度あの時代に戻りたい」などと考える。しかし、そのときどきで、やはりそれなりの悩みや不安はあったはずで、時の経過がそれを忘れさせ、過去のよい思い出だけが記憶にとどまっているのであろう。
過去というものは、人によって捉え方が大きく違ってくる。いつまでたっても過去から抜け出せず、心の傷が癒えなかったり、「昔はよかったのに」と思いつつ日を送る人もいれば、過ぎたことは過ぎたことと割り切って生きる人もいる。
もちろん過去の出来事を振り返り反省する姿勢は、次に失敗しないためにも必要であろう。思い出を大事にすることも人生を味わい深いものにする。
だが、どんなに悔やみ、嘆いても過去は変えられないし、どんなに望んでもそこには戻れない。いたずらに過去に囚われ、今を無為にしてしまってはもったいないと言える。
確かなのは、誰にとっても時間は有限であるということ。それならば、お互い未来に目を向けて、自らのありたい姿を描き、それに向って今この時を大切に過ごしたい。校長 中村三喜
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2024年8月7日(水)
8.7(水)記憶
2024年8月7日(水)
生徒の皆さんへ
「記憶」
遠い日のさまざまな出来事。「あのときは楽しかったなあ」と懐かしく思い出すこともあれば、「あの人に申し訳ないことをしてしまった」と、思い出すたびに後悔の念にさいなまされる出来事もある。
だが、誰でも昔の友達と話をしていて、自分ではすっかり忘れてしまっていることや、自分の記憶と違うことを言われて驚くといった経験をしたことがあるだろう。
それは人間の記憶がいかに曖昧なものかを物語っている。だから、自分がずっと気に病んでいることを、他人はもう覚えていないということも、実際、よくあるのである。
自分の行いや言葉が周囲に迷惑をかけたり、相手を傷つけたりしたと思うのなら、心から詫び、二度と同じ過ちをしないよう肝に銘じる。そうすれば、あとはいたずらに過去を引きずり、悔やむ必要はない。
もちろん忘れてはいけないこともあるけれど、そう考えることで気持ちが軽くなる。そしてそれが、今を大切に生きることにもつながっていくと言えよう。校長 中村三喜
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2024年8月6日(火)
8.6(火)加える
2024年8月6日(火)
生徒の皆さんへ
「加える」
私達の暮らしは、数知れない沢山の先人たちが生み出してくれたさまざまな工夫の上に成り立っている。
斬新なデザインの衣服、美味しい料理、快適な住まい、衣食住はもとより日常何気なく使っているものも改めて見直してみれば、一つとして先人の知恵の集積でないものはない。
先代の人びとの工夫に次の代の人たちの創意が加えられて、それまでなかったものが生み出され、不便だったものが改善される。その積み重ねの上に、社会の進歩がもたらされ、今日の豊かな暮らしがある。思えばありがたいことである。
そんな社会の一員として、お互いに日々、どれだけの創意工夫を自ら生み出しているだろうか。家庭で、学校で、職場で、あるいは生徒として、学生として、社会人としての立場で、親や先生、上司や先輩から教えられ受け継いだことに、どれだけ自分の新しい工夫を加えてきているかである。
本当に豊かで人間味に満ちた共同生活を築くために、工夫の余地はまだまだある。安穏な生活に堕することなく、たとえ些細なことでも新たな工夫を日々心がけたい。実践したいものである。校長 中村三喜
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2024年8月5日(月)
8.5(月)学ぶ心
2024年8月5日(月)
生徒の皆さんへ昨日までで夏休みは3週間を過ぎました。早いですね。生徒の皆さんは、体調に変わりはありませんか。暑さに負けた人はいませんか。まだ休みは続きますので、体には気をつけてください。
そして、勉強も遊びもアルバイトも家の手伝いも忘れずに続けてください。世の中に出て大事なことは「続ける」ことです。
「学ぶ心」
人は教わらず、また学ばずして何一つとして考えられるものではない。幼児の時は親から、学校では友だちや先生から、就職すれば先輩や同僚から、というように教わり、学んで後はじめて自分の考えが出るものである。
学ぶという心掛けさえあれば、宇宙の万物はみな先生となる。物言わぬ木石から夏空に輝く満天の星などの自然現象、また先輩の厳しい叱責、後輩の純粋なアドバイス、一つとして師ならざるものはない。どんなことからも、謙虚に、素直に学びたい。
どんなにAI(人工知能)が発展しようとも、どんなに時代が変化しようとも、どんなに新しいスキルが出現しようとも、学ぶ心がなければ、それらの変化に対応できないし、技術も技能も身につかないのだ。
学ぶ心が旺盛な人ほど、新しい考えを作り出し、独創性を発揮する人であるといっても過言ではないだろう。
校長 中村三喜
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2024年8月2日(金)
8.2(金)経験値
2024年8月2日(金)
生徒の皆さんへ
「経験値」
山も野原も黄緑色から深緑に変わっていった4ヶ月前。また、これまで慣れ親しんできた生活や環境から離れて、未知の生活に飛び込んで本格的に動き出す季節でもあった春。そして、いまは夏だ。
すぐに慣れる人がいる一方で、新しい生活になかなか馴染めない人もいるだろう。周囲の人が難なくこなしているのに、自分一人だけうまくいかず、いつの間にか最初の意気込みを失っていく人も少なくないのではないか。
だが、焦ることはない。他の人を羨むこともない。大事なのは、地道に、コツコツと、誠実に目の前の仕事や勉強に取り組み続けること。そうすれば、時間と労力をかけて蓄積された「経験値」は自分の本当の力として身につき、必ず後で生きてくる。
そして、今はとても敵わないと思っている人を、知らないうちに追い越しているということもよくあるのである。
自ら為すべきことを為すなかで得られる新たな発見や気づき、それらを一つひとつ確実に血肉にして、自分だけの経験値を貧欲に高めていきたいものである。
校長 中村三喜
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2024年8月1日(木)
8.1 (木)喜び
2024年8月1日(木)
生徒の皆さんへ
まだまだ、夏休みは続きます。熱中症は勿論健康には注意をして、納得いく休みを送ることを期待しています。
そして、お願いしておきたいことがあります。誰であってもルール、マナーは理屈抜きに守るべきものです。心に緩みが出ないように気をつけてください。
「喜び」
心を込めてつくった料理が家族の人に美味しいと言ってもらえたら嬉しい。企業人であれば、試行錯誤を重ねて開発した商品が認められ、世に受け入れられれば、今までの苦労も吹き飛ぶ。
その時全力を尽くした満足感もあるけれど、何より嬉しいのは、自分の行いが人の役に立ち、喜んでもらえたと実感できることである。人に喜びを与えることに喜びを感じる。それは人間の持って生まれた一つの本性だといえよう。
その、人間が本来持っている優れた特質をお互いに今どれだけ発揮しているだろうか。自分のことしか関心がない、自分の損得が最優先、そんな姿に堕してはいないか。
自分を犠牲にしてまで他人に尽くす必要はないが、人を喜ばせたいという思いで、自分にできることを誠実に、懸命に行うことは大事だ。
どうすれば周囲の人に喜んでもらえるかを常に考え、行動する。一人ひとりのそうした生き方が、それぞれの生きる励みにつながっていく。
そして、そこから潤いと笑顔に満ちた家庭や学校、職場、また社会が生まれてくるのである。人に喜ばれることを喜ぶ心をお互いに持ちたいものだ。
校長 中村三喜
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2024年7月31日(水)
7.31(水)共に生きよう
2024年7月31日(水)
生徒の皆さんへ
「共に生きよう」
「共に生きる」とはどういうことでしょうか。友人や家族と仲良く生きようということでしょうか、また、助け合い、支え合いながら生きようということでしょうか。
私たちは家族や友人など、多くの人々と共に生きています。しかし、そんな私たちはその家族や友人をどのように見ているでしょうか。
まず自分という自我(自分が正しいと思う心)を通して見ているのではないでしょうか。もし、そうであれば、真の意味で「共に生きている」のではなく、自分という世界と違う世界を生きている存在、つまり、家族だから一緒にいる、仲が良いから、気が合うから一緒にいるということになってしまう。
しかし、この自我に執着し続ける自分という存在、つまり、どうしようもない自分であることに気づき、それを受け入れて生きていく・・・・。そのことに気づいた瞬間、自分の傲慢さが弾け飛び、他人を「自分と同じ」として平等に見ることができるようになるのではないでしょうか。
「共に生きる」とは、他人を「同類」という自分と全く平等な存在、また、尊い命を生きている存在であることに気づき、そうした他人を「仲間」として同じ世界を生きていくことです。
そうしたことに気づくことができたなら、他人に対して傲慢でなく、また、気後れもなく、「仲間」として自分と平等な存在として接して「共に生きていく」世界に出会うことができるのではないかと思います。
校長 中村三喜
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2024年7月30日(火)
7.30(火)鏡の間
2024年7月30日(火)
生徒の皆さんへ
「鏡の間」
ハリー・ポッターの物語が、世界的なべストセラーになった。そこに「鏡の間」の話がある。
生まれて間もなく両親を失ったハリーは、魔法の学校の寄宿舎に入って自分の生い立ちを知った。そしてある日、この鏡の間に入ると、不思議なことに、大きな鏡に両親に肩を抱かれて立つ自分の姿を見えた。
ハリーは生まれて初めてのことで嬉しくてたまらず、それまでずっと感じてきた寂しさも癒されたという。この鏡は不思議なもので、人々の願望を叶えて見せる。成績優秀になりたい者はそのように、権力を得たい者はそうなっている姿を写し出すのです。
ハリーは鏡の虜になり、毎日毎日、この部屋でじっと過ごすようになったのです。両親と一緒にいる自分の姿を見て、時間を過ごしたのです。
何日か経って、ハリーの傍らに校長先生が立って言ったのです。「この部屋は、もう閉じることにする」。驚くハリーに校長先生は言いました。「この部屋に居続けて、生命を落としてしまった学生が何人もいるのだ」と。
これは、願望を鏡で見るのと自分で体験するのでは全く違うと言っているのです。夢を見ることに浸って、いつの間にか何もできない、生きる力を失ってしまうことを表しているのです。
夏休みの期間を利用して皆さんも読んでみてはどうでしょうか。参考文献:J・K・ローリング(イギリスの児童文学者)著『ハリー・ポッター』シリーズ全7巻(1999年12月~2008年7月)の日本語訳版。
校長 中村三喜
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2024年7月29日(月)
7.29(月)三昧境
2024年7月29日(月)
生徒の皆さんへ
「三昧境」
入社当初は頼りなくて要領も悪く、とてもやっていけないだろうと思われた人が、のちに見違えるほど輝きを放ち、30年後にその部門の責任者になる。さらに重役になるといったことがある。
一方で、将来を嘱望されながら伸び悩み、いつの間にか、その他大勢の中に埋没してしまう人も少なくない。その違いはどこから来るのか。
もちろん運もあろう。組織において、自分の適性にピッタリと合った仕事に就けたり、上司や先輩に恵まれるといったことは、自らの意思以外に因るところが大きい。
しかし、運だけでは、長年にわたって成長を重ねていくことはできないだろう。やはり何より、本人がどれだけ誠実に、熱心に、目の前の与えられた仕事、課題に取り組んできたかがものをいう。一心不乱、仕事三昧の境地に至るまで、日々、仕事に心血を注ぐ。そうした姿があってこそ、知らず知らずのうちに力がついて、周囲から一目置かれ、信頼も高まってくる。その蓄積が将来を左右するのである。
お互い、三昧境(ざんまいさかい)を味わえるまでにはなかなかなれないけれど、まずは没入することから始めてみよう。皆さんは今の生活にこの考え方を取り入れてみてはどうだろうか。
校長 中村三喜
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2024年7月26日(金)
7.26(金)お釈迦様
2024年7月26日(金)
生徒の皆さんへ
「天上天下唯我独尊」お釈迦様
お釈迦様は「天上天下唯我独尊」とおっしゃいました。一見すると、この世の中でただ我一人だけが尊いのだと独善的にとらえがちですが、その根底にあるのは、他の人も同じように絶対的に尊いのだという考え方です。
自分に良いところも悪いところもあると同様に、他の人にも良いところと悪いところがあります。お互いの良いところを認め合って、人間として成長する。自分がそうであるように、他のみんなも自己実現をしたいし、幸せになりたいと思っています。自分を認めることは、相手をも認めること。そのことを理解することが、人間関係がうまくいく基本だと言っているのです。校長 中村三喜
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2024年7月25日(木)
7.25(木)雨が降れば
2024年7月25日(木)
生徒の皆さんへ
「雨が降れば」
雨が降れば傘をさす。傘がなければ風呂敷でもかぶる。それもなければ濡れるしかない。
雨の日に傘がないのは、天気のときに油断して、その用意をしなかったからだ。雨に濡れて、はじめて傘の必要を知る。そして次の雨には濡れないように考える。雨が上がれば、何をおいても傘の用意をしようと決意する。これもやはり、人生の一つの教えである。
わかりきったことながら、世の中にはそして人生には、晴れの日もあれば雨の日もある。好調の時もあれば、不調の時もある。にもかかわらず、晴れの日が少し続くと、つい雨の日を忘れがちになる。好調の波が続くと、つい行き過ぎる。油断する。これも、人間の一つの姿であろうか。
このことを戒めて昔の人は「治にいて乱を忘れず」と教えた。仕事にしても何にしても、この道理はやはり一つである。
雨が降れば傘をさそう。傘がなければ一度は濡れるのも仕方がない。ただ、雨が上がるのを待って、二度と再び雨に濡れない用意だけは心がけたい。雨の傘、仕事の傘、人生の傘、いずれにしても傘は大事なものである。
校長 中村三喜
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2024年7月24日(水)
7.24(水)暗示
2024年7月24日(水)
生徒の皆さんへ
「暗示」
よく雨男とか晴れ女という。その人がいると急に雲行きが怪しくなったり、反対に、雨の予報だったのが不思議と降られなかったり、それが幾度か重なるうちに、自分は雨男だとか、あの人は晴れ女だと信じるようになる。
冷静に考えれば、その人がいるからといって天候が変わるはずはない。巷間、口にされるいわゆるジンクスなども同じ類であろう。ただ、そうしたことをすべて非科学的だとして、頭から否定する必要もまたないのではないか。
もちろん頑迷に陥って、他人の言葉や助言に耳を貸さなくなってはいけない。しかし、何かを自分に言い聞かせ、暗示にかけることで、心に安寧、平安がもたらされるのである。
例えば、あることがきっかけで自分は運が強いなと感じる。そんな出来事が一度ならず起きると、それが確信に変わり、ついには揺るぎない信念となる。そうすれば、自分は運が強いのだから必ずうまくいくはずだと動じることなく事に処すことができて、さらなる成功に結びつく。
何かを心の支えとしてそれを信じることも、力強く、心穏やかに生きていくためには大切なことだと言えるのではないだろうか。校長 中村三喜
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2024年7月23日(火)
7.23(火)偉い人と立派な人
2024年7月23日(火)
生徒の皆さんへ
「偉い人と立派な人」
私のお袋は生前口癖のように「世間には偉い人は大勢いるけれど、立派な人はめったにいない。おまえは偉い人にならなくてもいいから立派な人になっておくれ」と言っていた。
私はそれを聞いてなるほどと思ったのと同時に、「立派そうな人は大勢いるけれど、本当に立派な人はめったにいない」という言い回しが浮かんできて、その言葉に自分で何度も頷いたものだった。
戦後の民主主義は、すべての人に平等に出世できる機会を与える機会均等主義という考え方を通して平等を現実のものとした。
しかし、その一方で、教育過熱という塾漬けの歪みを子供に押しつけ、ただテストに強いだけの人間が世の中で押し合いへし合いしているだけの社会、すなわち人間味に欠ける、どこかおかしい社会も現出してしまった。
このような世の中で本当に立派な人を輩出することができるのだろうか。それだけに今、母親の言葉が胸に沁みるのだ。校長 中村三喜
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2024年7月22日(月)
7.22(月)メリハリ
2024年7月22日(月)
生徒の皆さんへ
「メリハリ」
人間は、生きている上で、ずっと頑張り続けることは出来ない。時には頑張り、時にはのんびりと心身を休める時が必要なのだ。
私たちはどうしても日々の生活を送る中で、ONとOFFのバランスを見失い、頑張り過ぎたり頑張らなさ過ぎたりすることがあるのではと思う。そうなると心身のバランスが崩れ、健康的な生活を維持することができなくなる。
例えば、輪ゴムの場合、伸縮を利用して何か物を留めるときに伸ばして使う。その分、輪ゴムは劣化するのではないか。さらに、長期間伸ばした状態にしておくと、その劣化は早くなると思う。しかし、使わないときは、伸びない状態のままなので輪ゴムに負荷はかからず、劣化は防げる。
人間も同じで、頑張り過ぎがたたって病気や怪我をしたり、頑張り続けると中だるみしたりしてしまう。やはり、メリハリをつけてONとOFFを上手く切り替えることが大切だと思う。
世の中には「中道」という言葉がある。一方にかたよらない穏当な考え方・やり方、執着を離れ、正しい判断をし、行動するという意味が込められているのだ。
つまり、私たちは心身とも健康で生きる上で、何事も両極端にするのでなく、一方に片寄らず「バランス」を計り、「メリハリ」をつけることが大切なのだ。是非一度、自分自身を見つめ直してみることが大事なのではと思う。校長 中村三喜
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2024年7月19日(金)
7.19(金)まず聞こう
2024年7月19日(金)
生徒の皆さんへ
「まず 聞こう」
「聞く」ということは私たちにとってどのようなことなのだろうか。ただ単に自分の耳で音を聞くだけではないだろう。聞くという行為には、自らが他人の声を聞くことや他から聞こえる様々な音を拾って自らが考えることなのではないのか。
3年前5歳だった孫娘との会話の中で今でも忘れられないことがあった。それは、孫からの他愛もない質問に対し私が説明する中で、わからない言葉や納得のいかないことがある度「どうして」、「なぜ」と尋ねるのだ。
そこで私が「黙って最後まで聞きなさい」と 言ってしまったのだ。しかし、よくよく考えてみれば、孫に対し間違ったことを言ってしまったと反省したのだ。
どんな場合でも、どんな相手であろうとも、コミュニケーションをする場合に一番大切なことは、「素直に聞くこと」だ。しかしながら「素直に聞く」ということは一見簡単そうに思える
が、実は何よりも難しいことだ。自分にとって都合の良いように聞くことはできても、話す相手の思いをそのまま間違いなく聞くことは容易なことではない。
素直に聞くとは、まさに5歳児の孫娘の聞き方こそが「素直な聞き方」だったのだ。わからない言葉が出てきても、納得のいかない話でも、何もかもわかったような顔をして聞きことほど、
素直でない聞き方はないと思う。わからないことは、わからないと尋ね問うていくのが素直な聞き方なのではないだろうか。校長 中村三喜
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2024年7月18日(木)
7.18(木)ゴール
2024年7月18日(木)
生徒の皆さんへ
「ゴール」
一念発起し、遊びも趣味も楽しみも、あらゆるものを我慢して努力した結果、やっと叶えることができた。満足感と安堵感を味わい、ようやく報われたと思った矢先に、新たな課題が生じてくる。
お互いの人生は、一つ事が成ったとしても、また大きな山が立ちはだかる。それは果てしない旅、終わりのない苦労の連続かもしれない。
だがいったん目標が達成されると、人は往々にして緊張の糸が切れ、さらなる意欲を失ってしまいがちである。だから、次々と生まれる課題は、気力を保ち、成長を続けさせる原動力ともいえよう。
いくつ峠を越えれば真の達成感を得られるのかはわからない。それでもゴールを目指して懸命に進んでゆこう。一つひとつ、目の前の山坂を超えるため、ひたすら歩んでゆこう。
そうした一歩一歩の積み重ねこそが人生であり、その過程でどれだけ力を尽くすかによって人生の価値や生きがいが決まるからである。次はどんな山が待ち構えているのだろうか。校長 中村三喜
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2024年7月17日(水)
7.17(水)ドラマ
2024年7月17日(水)
生徒の皆さんへ
「ドラマ」
世の中では、誰でも仕事や人生において突如、窮地に陥ることがある。「なぜ悪条件ばかり重なるのか」「こんなときに事故に遭うなんて」といった愚痴がついこぼれる。人生100年時代、平穏のうちに過ぎればそれにこしたことはないけれど、そうはうまく運ばない。時に悲劇に見舞われるのも人生である。
劇と言えば日常、私たちはテレビや書物を通してたくさんのドラマを楽しんでいる。おもしろいドラマの条件は、主人公の目の前に高い壁が立ちはだかっていること。そして主人公が絶体絶命のピンチから脱出し、大逆転するところに気分爽快、ドラマの醍醐味を味わっているものである。
とすれば、現実に危機に直面したとき、これもまたドラマの舞台、自分をその主人公に見立てみたらどうだろう。不屈の闘志で事態を打開できればまさにヒーロー、観客ではなく主人公としても極上の喜びを味わえるのではなかろうか。
嘆くのはほどほどにして前向きに。逆境こそ最高のドラマの始まりだと捉え、まずは主人公らしく、自分の足で立ち上がることから始めてみようではないか。校長 中村三喜
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2024年7月16日(火)
7.16(火)チャンスの神様
2024年7月16日(火)
生徒の皆さんへ
「チャンスの神様は前髪しかない!」
私の母は小学生の私に、よくこう言っていた。当時の私は「前髪しかないなんて、ずいぶんヘンな神様だな」と思っていましたが、後に、イギリスのイートン校の校訓だと知りました。そして、(株)カスミストアー(現カスミ)に就職した時、創業者社長:神林照雄氏から、経営者として忘れてはならないことの一つとして、まったく同じことを言われたことを覚えています。
「チャンスだと思ったらすぐ掴む。その後、活かす方法を考える。そのためにいつも考え続ける。頭の隅にあればこそ、チャンス到来を見逃さない」ということだ。
人生は思うようにはいかない。いつも前進あるのみ。済んだことはくよくよしない。一晩休んだら、嫌なことは忘れる。そして、ちゃんと食べる。好きなことをする。
私の情熱と自立心を支えている言葉の一つだ。校長 中村三喜
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2024年7月15日(月)
7.15(月)こわい人
2024年7月15日(月)
生徒の皆さんへ
「こわい人」
大人の世界では、人の上に立って立派な仕事をしていた人が、いつしか権力を振りかざすようになったり、堕落したりして人を失望させることがしばしば起こる。
要因は様々で容易に窺い知れないけれど、一つ指摘されるのは、当人のそばからこわい人がいなくなったからだという。
どんな人でも最初から優れているわけではない。芸事、スポーツ、学業や仕事にせよ、師と言えるこわい人がいて、その人による厳しい指導の結果、技芸が上達したり、社会人として成長したりできる。
指導を受けている期間こそ、逃げ出したいとか、早くいなくなってほしいと思うことがあっても、後になればなるほど、そんなこわい人の有難さに気づくのである。
ただ、どれほど精進していても、こわい人がいなければ、自制心が効かなくなり、省みる心を見失いがちになってしまう。それは人の業の深さというものなのだろうか。
そうならないために、自分を律する努力は怠るまい。そして、心の中にあのこわい人の存在を忘れないようにしたいものである。校長 中村三喜
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2024年7月12日(金)
7.12(金)この一日
2024年7月12日(金)
生徒の皆さんへ
実質明日から夏休みに入りますが、皆さんにとって毎年迎える夏休みに同じ夏休みはありません。
それだけに、自分の成長に合わせた夏休みの目標や目的を明確にして、長い休みを充実したものにしましょう。
その時大事なことは、途中で諦めてしまうような目標ではなく、続けられる目標を設定することです。「塵も積もれば山となる」であって、少しづつの集積が大を成すのです。
「続ける」ことができれば、結果につながります。自分のペースを守って自学自習を続けてみてください。皆さんの人生にとって必ず役に立つと思います。また、「人のために役立つ」仕事や手伝いなどの経験もいいのではないか思います。
休みは長いですから、体調には気をつけて、自分のペースを守って頑張りましょう。
そして、私から全員に対してお願いです。いいですか、「ルール違反は絶対にしない」こと。若い皆さんのこれからの人生を台無しにしてしまいます。
今日から毎日(土・日曜を除く)皆さん宛に一文を送ります。何か参考になればと思います。
「一日一日を大切に」
私たちの日々の暮らしは、当たり前の小さな幸福に囲まれている。仕事前に飲む一服のお茶、休み時間に同僚と語り合う時間、そして家族との団欒。生徒であれば、学校での友達との語らい、教師との触れ合い。
いや、それ以前に、朝起きて目一杯に伸びをして息を吸える、大きな声で笑える。好きな所へ自由に出かけられること、それ自体なんて素晴らしいことではないか。
ところが、それは当たり前ではなく、小さな幸福がかけがえのないものだと知るのは、きまってそれらが失われる間際で、手放した後の哀しみは計り知れない。平和と健康はそれほど「有り難い」ものなのである。だからこそ、一日一日を大切に生きたい。「諦めた」「後でやろう」「もう駄目だ」などと安易に言ってはならない。
当たり前の一日を過ごすべく闘っている人が多くいる中、感謝の心もなく、自分自身に悔いが残る一日を過ごしていては、もったいないと言えるのではないか。
一片の雲もない美しい朝。いつものように一日が始動する。それは当たり前のようでいて当たり前ではない。謙虚な気持ちで一日一日を、そして一年一年を、さらに一生を送りたい。
本年8月19日で満80歳を迎える私の実感です。校長 中村三喜
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2024年7月8日(月)
生徒・保護者の皆様へ
この時季、異常な暑さが到来してますが、お変わりございませんか。
さて、「校長への便り」を開設いたしましてから1カ月超が経過し、この間に10通の便りをいただきました。(7月7日現在)ありがとうございます。
なお、ご連絡のとれる皆様方にはお返事を直接差し上げておりますが、無記名のものにつきましては直接お返事を差し上げることはできません。
しかし、投書のすべてについて私が責任をもって対処しておりますので、念のためお知らせいたしておきます。
今後共、貴重なご意見をよろしくお願い申し上げます。
2024年7月8日
水戸平成学園高等学校
校長 中村 三喜 -
2024年6月21日(金)
生徒の皆さんへ
2024年6月21日
今朝9:50に、2名の女生徒が、男子生徒が拾ってくれた10円玉を預かって私に届けてくれました。
10円ぐらいと思わずに、10円でもと考える、その誠実な気持ちと行為に対し心よりお礼を言います。
この姿は、私が目指している生徒像の一面を体現してくれています。本当にありがとう。
水戸平成学園高等学校
校長 中村三喜 -
2024年6月11日(火)
生徒の皆さんへ
2024年6月10日
今日の14:30に、2人の女生徒が、多目的教室で落とし物の10円玉を見つけて届けてくれました。
10円ぐらいと思わずに、10円でもと考えて届けてくれました。10円でも落し物は落とし物と考える素直で正直な気持ちに感謝します。本当さわやかな気持ちになりました。
水戸平成学園高等学校
校長 中村三喜 -
2024年5月2日(木)
校長より生徒の皆さんへ【第35回】
校長より生徒の皆さんに第35回目の言葉です。
2024年5月2日(木)
生徒皆さんへ
今日で春休は終了ですが、明日から4日間の連休がありますので、本格的な授業開始は5月7日(火)からになります。
休み期間中に皆さん一人ひとりそれぞれの経験をしたと思います。充実した休みだった人、もの足りなさを感じた人、様々でしょう。
でも、誰もが連休明けからの学校生活に、その経験を生かしてください。そういう積み重ねが知らず知らずのうちに人を成長させるのです。自分のペースを守って頑張りましょう。
「そこにある山」
人はなぜ山に登るのか。その問いには、ある名登山家の「そこに山があるから」という答えが知られている。たしかに吸い寄せられるように、時に人は山の魅力の虜となる。
ただ、山を人生で経験する試練と見立てれば、人は誰でも、山また山を越える日々を延々と強いられているとも言えまいか。とすると、「そこに山があるから」との言葉には、所詮登るしかないという切羽詰まった境地も窺える。
低い山に高い山、穏やかな稜線の青山や険しい尾根が続く雪山・・・・。自分がこれから登る山に、一つとして同じ山容が現れることはあり得ない。大切なのは、たとえどんな山が姿を見せようと、断じて登頂を果たすという覚悟を持つことであろう。
苦しいのは当然であるけれど、山頂の絶景を目にする喜びを味わい、沢で見かけた名も知らぬ花にも癒しを得ることもある。決して辛いことばかりではない。
ゆっくりでいい。登り続けることである。今日の山上の天候を窺いつつ、いま自分が目指すべき頂を確かな足取りできわめてゆこう。
校長 中村三喜
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2024年5月1日(水)
校長より生徒の皆さんへ【第34回】
校長より生徒の皆さんに第34回目の言葉です。
2024年5月1日(水)
生徒の皆さんへ
「絵は自在に」
子どもが描く絵はいずれも天才の冴えがある。ところが小学生になり、中高生から大人へとなるにつれて、次第に描けなくなってしまう。
うまく描かなければという焦り、恥はかきたくないといった緊張。あるいは、技法を知らないからという言い訳や理屈が邪魔をして、筆が一向に進まなくなるのである。
絵を描くコツは、こうした上手に描こうという捉われから、まず己を解放するところにあるのではないだろうか。他人の目を気にせず、自分らしさに徹すれば、描く楽しさを思い出し、再びうまく描けるようになるに違いない。
人生も同じで、幼少のころ思い描いた将来は自由自在であったはずだ。それが年を重ね、学年の階段を上がるうちに、過去の成績や他人との比較、社会の価値観に影響を受けて、つい思考が窮屈になっていく。失敗作にならないよう汲々としてしまうのかもしれない。
自分の人生の絵を描けるのは自分だけ。大切なのはその絵を自在に描くことではあるまいか。さあ、今こそ、夢のある絵を描いてみよう。
校長 中村三喜
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2024年4月30日(火)
校長より生徒の皆さんへ【第33回】
校長より生徒の皆さんに第33回目の言葉です。
2024年4月30日(火)
生徒の皆さんへ
「引き受ける」
学校や職場や日常生活で、周囲の人に何か事を頼まれる。あなたを見込んでとか、君にしかできないと言われたら、自信がなくても、つい引き受けてしまうのがお互い人間の一面だろう。
そしてともすると、やっぱり自分の力量では無理だ、断ればよかったと悔やむ。約束の期日が近づくにつれどんどん気が滅入ってきて、現実から逃げ出したくなる。
だが、よく考えてみれば、あてにされるうちが花。声がかからなくなったら確かに楽にはなるけれど、一方できっと淋しくなるに違いない。
だから、いったん引き受けたからには後悔したり、逃げ出したりするのはやめよう。一度逃げてしまうと、次もまた逃げ出してしまう。そうなってはそのうちに信用を失って、もう誰も頼ってくれなくなる。
これは自分の可能性を拡げる絶好の機会が与えられたということ。頼りにされたことを意気に感じ、その期待に応えるべく、とにかく精一杯取り組みたい。
そうしてこそ成果もあがり、自らの新たな力、成長の糧となっていくのである。
校長 中村三喜
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2024年4月29日(月)
校長より生徒の皆さんへ【第32回】
校長より生徒の皆さんに第32回目の言葉です。
2024年4月29日(月)
生徒の皆さんへ
「吉田松陰の名言」
私の好きな大河ドラマの一つだった『花燃ゆ』(2015年1月4日第1回、12月22日最終回)は、幕末から明治維新にかけて、そして明治政府で活躍した志士たち(高杉晋作、山形有朋、伊藤博文等々)を育てた吉田松陰(1830~1859年)を題材にしたものでした。
その吉田松陰に、
「夢なき者に理想なし 理想なき者に計画なし 計画なき者に実行なし 実行なき者に成功なし、ゆえに、夢なき者に成功なし」という名言がある。
すなわち、第一に夢を持つことが大切なことは言うまでもないが、理想(目標)、計画、行動の、どれ一つが欠けても成功することはできないと言っているのである。
松蔭は、「PDCA cycle」(plan-do-check-action cycle)の概念を、当時から実践していたといえるのである。
校長 中村三喜
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2024年4月26日(金)
校長より生徒の皆さんへ【第31回】
校長より生徒の皆さんに第31回目の言葉です。
2024年4月26日(金)
生徒の皆さんへ
「日常」
毎日が同じことの繰り返し。単調な生活でつまらない。お互いときにそんな日常に不満を抱くことがある。
しかし、コロナ問題や今回の能登半島地震のように、何か事が起こると、人は、それまでの平凡な毎日がいかに貴重なものであったかに気づかされる。人生で出遭うさまざまな不慮の出来事は、当たり前がどれほど幸せなことかを知る機会でもあるといえよう。
大切なのは、事もなく過ぎていく日常のありがたさを噛みしめること。そして、そのうえで、日々を新たな気持ちで送ることではないか。
たとえ同じことの連続のように思えても、まったく同じ毎日というものはあり得ない。よく見れば周りの自然は時々刻々に移り変わっているし、人も今日は昨日より一日経験を重ね、物事に習熟することにもなる。心の持ち方次第やり方次第で、繰り返される日常の中に新しい発見や進歩や楽しみを見出すことができるのである。
昨日と変わらぬ朝と夜を迎えられることに感謝したい。変わらぬところに喜びを感じて、変わらぬ一日一日を精一杯大切に過ごしたい。
校長 中村三喜
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2024年4月25日(木)
校長より生徒の皆さんへ【第30回】
校長より生徒の皆さんに第30回目の言葉です。
2024年4月25日(木)
生徒の皆さんへ
「歩き続ける」
長い人生のうちには、時には避けがたい災難、苦難に、突然見舞われることがある。何も悪いことをしていないのに、どうして・・・・・・と世を恨み、悲嘆にくれる。
いつ、誰に、どんな運命が訪れるのか、それは誰にも分からない。そんな危うい土台のうえに、お互いの日常は成り立っているといえよう。
この世には個人の意思ではどうにもできない、理不尽なことが確かに起こる。そして、そんな出来事に遭遇してもなお、人はやはり生きていかなければならないのである。
つらいとき、悲しい時は、思い切り泣けばいい。涙を流し、悲しみや苦しみを洗い流そう。だが、そうしてしばしば心を慰め、癒したら、これすべて我が運命と受け止め、今日を、明日を生きていこう。
口には出さないけれど、多くの人が何らかの悲しみを抱きながら、日々を懸命に生きている。今はどんなに辛くても、一歩一歩、とにかく歩き続けていれば、時の流れが少しずつ心の痛みを和らげてくれるに違いない。
校長 中村三喜
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2024年4月24日(水)
校長より生徒の皆さんへ【第29回】
校長より生徒の皆さんに第29回目の言葉です。
2024年4月24日(水)
生徒の皆さんへ
「聞く耳」
自分の間違いや欠点を指摘されるのは、誰しもあまり気分のいいものではない。だからお互い、人から正面切っての注意を受けると、内心ではつい嫌な気分になって、反発したり言い訳したりしがちである。
けれどもそんな時こそ、自らの感情の動きに囚われず、素直な心で耳を傾けることが大切ではないだろうか。
親・兄弟などの身内ならともかく、他人が面と向って間違いや欠点を言ってくれることは少ない。言わなくてもいいことを言って、わざわざ嫌がられることはないというのが大方の人情であろう。
そんな中で、あえて言いにくいことを言ってくれる人は貴重である。その声に耳を傾け、一時の感情に左右されずに、指摘された間違いや欠点を認める。そこから、よりよき自分へと向上する歩みも始まるのである。
心地よいことなら誰でも聞く。不愉快なことを言われても、それが真実なら受け入れるのが真に聞く耳を持つということである。素直な心で聞くということも、実はそんな姿を言うのではないだろうか。
校長 中村三喜
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2024年4月23日(火)
校長より生徒の皆さんへ【第28回】
校長より生徒の皆さんに第28回目の言葉です。
2024年4月23日(火)
生徒の皆さんへ
「意味」
この世の中に起きること、人生で起きることにはみんな意味があるというけれど、どうしてもその意味を見出せないときがある。なぜこんな辛い思いをしなければならないのか。いくら考えても、納得のいく答えは得られない。
ただ一つ言えるのは、自分が生きてここにいるのは、選ばれてこの世に生を受け、生かされているということだ。だから、たとえ絶望の淵に沈んでも、命ある限り人は生き続けなければならないのである。
事態がすぐに変わることはないだろう。しかし、人間には、どれほど厳しい試練でも、それを乗り越え、未来を切り開いていく力がある。過去、幾多の先人が、数々の惨禍から立ち上がり、復興を成し遂げたように。
生きていることがいかに尊く、幸運かを改めて心に刻み、自分にできることに精一杯、取り組んでいきたい。そうすれば、挫(くじ)けずに頑張ってきてよかったと心から思える日が、きっと来るはずである。
その時にはじめて、自らの人生において、今の苦境に出遭った意味がわかるのかもしれない。
校長 中村三喜
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2024年4月22日(月)
校長より生徒の皆さんへ【第27回】
校長より生徒の皆さんに第27回目の言葉です。
2024年4月22日(月)
生徒の皆さんへ
「回り道」
青葉が繁る春本番のこの季節、陽気につられ勉強も仕事も好調であれば、気分は上々であろう。ただ、一方で調子よくきていたものが、最初の曲がり角を迎えるのもこの頃ではないだろうか。
自信とは不思議なもので、失いかけると一気に音を立てて崩れていく。加えて不安がつのれば、自己否定の悪循環に陥ることもしばしばである。そんな時こそ、心をリセットして、一度肩の荷を下ろそう。自分を点検する最初の機会が来たと考えればよい。
目覚ましいスタートダッシュが切れればそれに越したことはない。けれども、カーレースでも適時ピットに入り、補給や修理、戦略の練り直しをするのが必須で、要するに走りっ放しでは勝てないように出来ている。人生も同じなのである。
それに近道もあれば回り道もあるのが人生ではないか。ともすれば近道を選びたくなるのは人情だが、あとからしみじみ幸運を感じるところこそ、回り道の奥深さであろう。
人生は長い。あせらず、時には回り道の風景を味わっておくことも得難い体験になるに違いない。
校長 中村三喜
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2024年4月19日(金)
校長より生徒の皆さんへ【第26回】
校長より生徒の皆さんに第26回目の言葉です。
2024年4月19日(金)
生徒の皆さんへ
「睨んでいるだけでは」
禅の開祖・達磨大師は修行のために壁に向かって坐禅を組んだ。以来、雨風に曝(さら)されようが、膝に蜘蛛(くも)が登ってこようが、わき目もふらず面壁(めんぺき)9年。悟りを得た達磨大師は、足を解いて立ち上がった際、こう言ったという。
「なるほど、ただ睨んでいるだけでは、壁に穴を穿(うが)つことはできぬ」
さて、当たり前の事実を言うこの言葉。これをたわいもないことと笑っていいのだろうか。仕事や学習において、日常、成すべきことに囲まれているのが私達である。けれども、そのすべてを遂行できているかと言えば、甚だ心もとない。
理念に基づく尊い仕事ですら、気を許せば、理想を追求するより、できる現実に照準を合わせている。実力向上を望んで準備する試験も、結果が伴わなければいつも別の理由を探している。
それはやれなかったのではなく、結局、睨むばかりでやらなかったことと同じではないだろうか。
穴を穿つには、断固たる覚悟が求められよう。睨んでいるだけでは何も成しえないのである。
校長 中村三喜
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2024年4月18日(木)
校長より生徒の皆さんへ【第25回】
校長より生徒の皆さんに第25回目の言葉です。
2024年4月18日(木)
生徒の皆さんへ
「レポート学習」
2020年に日本でも発症が確認された新型コロナウイルス感染症防止のために、国内のすべての学校が休校や分散登校を経験しました。そこで学んだことはレポート学習の重要さです。まず、自ら学ぶ学習です。
つまり、教師による一方通行型の授業とは違い、それを反転させた形でのレポート学習によって、「考える力」が向上することがわかってきたからです。「考える力」は「探究心」「創造力」「自主性」「頑張る力」などを引き出し「生きる力」に直結します。
本校の皆さんは、既に、それを先行して実践していましたし、コロナ禍によって休校中でも当たり前として取り組んできたと思います。改めて、レポート学習の重要性を認識しましょう。知らず知らずのうちに、それが生きていく上での自信を生み出すのです。
校長 中村三喜
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2024年4月17日(水)
校長より生徒の皆さんへ【第24回】
校長より生徒の皆さんに第24回目の言葉です。
2024年4月17日(水)
生徒の皆さんへ
「定説」
従来よいとされていたことが、あるときを境に、実はまったく間違いだったと、常識や通説が覆されることがある。評価が百八十度転換して困惑し、戸惑うばかりである。
何事においても、人はその時々のメディアやオピニオンリーダーの主張、論説をそのまま信じてしまいがちである。これがいいといわれれば無批判に従い、あれがいいとなればすぐまたそれに追随する。だが、そうした姿勢に終始していては、大抵の場合、振り回されて終わるのが落ちであろう。
現代は、さまざまな情報が溢れている。そんな中で、多数の支持する考え方が普遍の真理とはいえないし、権威ある人の知見だからといって、必ずしも正しいとは限らない。一般論や定説を鵜呑みにせず、虚実を判断したいものである。
そのためには、常に自分の頭で考え、追求し、納得したうえで選択することを習慣づけたい。本当に正しいか、受け入れるべきなのか、場合によっては、まず疑ってかかることも必要だろう。
併せて、選んだ結果はどうであれ、その責めは自ら負わなければならないこともしっかりと肝に銘じておきたい。
校長 中村三喜
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2024年4月16日(火)
校長より生徒の皆さんへ【第23回】
校長より生徒の皆さんに第23回目の言葉です。
2024年4月16日(火)
生徒の皆さんへ
「伝え方」
スマホやメール、そしてインターネットによる種々のサービスにより、気持ちや情報を伝えるのに、これほど便利な世の中になると誰が想像したことだろう。
ただ、それによって人と人との相互理解が進んだかといえば、残念ながらそうではない。いさかいは減るどころか、コミュニケーション不足による事故や事件は、日々増すばかりである。
その一因は、情報ツールにおける些細な誤解があるからではないだろうか。たとえば、スマホでメールを書き、送信ボタンをクリックすれば、送信者側はその瞬間に伝えたと思い込み、見ていない受信者側をつい非難してしまう。また、単なる言葉の打ち間違いが、相手の心のしこりとなって、後で大きなトラブルに発展することもある。
伝える手段が多いのはありがたい。けれども、伝え方には長短があり、手間がかかっても直接話し合ったり、手紙を書いたりすることもやはり重要だろう。
情けに報いると書いて情報である。伝わればよいのではなく、よく伝えようとする心がけを忘れずにいたい。
また今は、AI(人工知能)が急速に発展している。バーチャルとリアルの仕切りも見えなくなる時代を迎えようとしている。ますます、伝える力は重要になってくる。
校長 中村三喜
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2024年4月15日(月)
校長より生徒の皆さんへ【第22回】
校長より生徒の皆さんに第22回目の言葉です。
2024年4月15日(月)
生徒の皆さんへ
「運命」
この世に永遠というものはない。どんな形であれ、身近にいるすべての人との別れがいつかは訪れる。
まさか自分がこういった人生を送るなんて思いもよらなかった・・・。過去を振り返り、今ここにこうしていることの不思議さに、ふと感慨を覚える。誰にでもあるのではないか。
今の境遇は自ら選んだようであり、一方で、折々の様々な出会いと偶然によってもたらされたようでもある。しかし、さらに突き詰めていくと、このようになっていた。これが運命だったのだという思いに行き着く。
お互い、これからどのような人生が待っているか、いつ何が起こるかわからない。よいこともあれば、時には過酷な出来事に遭遇することもあろう。
だが定められた運命なら、すべて引き受けるしかない。運命に従いつつ、その時々の自分にできる精一杯のことをやっていけばよいのではないか。そう感じれば安心感も得られよう。
たとえ困難に陥り、不本意な状況におかれたとしても、それは自分に与えられた貴重な試練。自棄(やけ)になって自ら不幸を招くのだけはやめたい。
それが悔いを残さず、最後の最後に、生まれてきてよかったと心から思える人生の歩み方といえよう。
校長 中村三喜
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2024年4月12日(金)
校長より生徒の皆さんへ【第21回】
校長より生徒の皆さんに第21回目の言葉です。
2024年4月12日(金)
生徒の皆さんへ
「場」
先ほどまで竹刀の音が響いていた道場で、剣士たちが正座し黙想、そして静かに道場に一礼する。ユニフォームを泥だらけにした野球少年らが一列になり、大声と共にグランドに向かってお辞儀をして練習を終える。
多くのスポーツ選手が示す、場に対するゆかしい振る舞いは、観ている者にも一服の清涼剤である。その清々しさがどこから来るのかといえば、自分たちが鍛えられるところ、成果を出すところの場の意義をよく理解し、感謝と敬意を忘れないからではあるまいか。
これは日本人の礼の躾の一端によるものであり、海外のスタジアムで、日本人観光客が観戦後に座席を掃除して称賛されるのも、同じ意識の発露なのであろう。
人間同士の礼にとどまらず、こうした、いわば場への礼の精神が浸透すれば、社会はより豊かになるに違いない。
コロナ感染の5類移行後も、それ以前と変わらずに多くの外国人が来日し、海外との交流はますます深まろうとしている。グローバルな時代に、日本人の一人として場に対する美意識を世界にも広めたい。そして自分にとっての場をどのように大切にするか、時に思いを巡らせたい。
校長 中村三喜
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2024年4月11日(木)
校長より生徒の皆さんへ【第20回】
校長より生徒の皆さんに第20回目の言葉です。
2024年4月11日(木)
生徒の皆さんへ
「回り道」
努力すれば報われると信じて、懸命に取り組んでいるのに、なかなか思うような成果が上がらない。むしろかえって状況が悪くなる。もう一度、と思い直してぶつかるたびに跳ね返されて、気が滅入り自信が揺らぐ。そのうちにいつしか訪れる深刻なスランプ。仕事や人間関係などで、誰もが何度かは経験する人生の試練である。
行く手を遮る障害物に出遭った場合、何とかこれを乗り越え、突き破ろうと正面から取り組むことは、むろん大事である。けれどもそれに囚われて、それしか道はないと思い込むのは早計だろう。
障害物の中には、乗り越えられないものも、突き破れないものもある。それに対してただ体当たりを繰り返すだけでは、心身共に疲れてしまう。一息入れて時を待つとか、一歩下がって力を蓄えてから出直すとか、対処の手立ては他にもある。
あせらずにいま一度、障害物の正体を冷静に見極めてみたい。そして改めて、我がとるべき策を考えてみたい。回り道が近道かもしれないのである。
校長 中村三喜
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2024年4月10日(水)
校長より生徒の皆さんへ【第19回】
校長より生徒の皆さんに第19回目の言葉です。
2024年4月10日(水)
生徒の皆さんへ
「人財」
親にとって、子供はいつまでたっても子供である。たとえ成人しても、子供が父親になり母親になっても、元気でやっているだろうかと気にかかる。もし辛い思いをしていれば、我がこと以上に心配し、代われるものなら代わってやりたいと思う。それが世の親の気持ちであろう。
希望に胸を膨らませて新入生、新入社員が入ってきて10日。皆、そうした親の思いを一身に受け、愛情をもって育てられ成長してきた人達である。その人材をいかに導き、育てるか。後進の指導、育成は人生の先輩として果たすべき役割であり、責任である。
とはいえ、速く成長してほしいと願うあまり、少しでも気になるとあれこれ口を出し、世話を焼くのは好ましくない。良かれと思ってすることが、かえって本人のためにならないこともある。放任もいけないし、過保護でもいけない。難しいことだが、その見極めが求められよう。
いずれにせよ大切なのは、一人ひとりすべての人が、両親をはじめたくさんの人に愛情を受けたかけがえのない人だということである。そのことを常に意識してその人と向き合いたい。
校長 中村三喜
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2024年4月9日(火)
校長より生徒の皆さんへ【第18回】
校長より生徒の皆さんに第18回目の言葉です。
2024年4月9日(火)
生徒の皆さんへ
「新しい夢」
今の小学生に将来の夢として、なりたい職業を尋ねると、男の子ならプロスポーツ選手やゲームクリエーター、女の子なら保育士、医師、パティシエといった答えが返ってくるという。時代の違いはあるけれど、子供達の夢はいたって明快、語らう姿を想像するだけでも微笑(ほほえ)ましい。
ところが夢のとおり叶うかはさておき、大人になって職に就き、幾春秋が過ぎるうちに、いつしか新しい夢を持たなくなってしまう。
いやいや仕事には常に目標があり、目標を達成すればまた次の目標が与えられ、倦(う)むことはない。そう言い切れるならばそれはそれで結構なことだ。
とはいえ、目標は一つの目安にすぎない。まして目標達成のために汲々(きゅうきゅう)とし、真の仕事の喜びや自分を高める楽しさを見失ってはつまらない。
仕事に限らず、いつも夢を持ち続けよう。日常の些事(さじ)に追われて疲れを覚えても、夢を思い起こせば元気が戻ってくる。
人生は夢あればこそ輝くことを忘れないでいたい。
校長 中村三喜
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2024年4月8日(月)
校長より生徒の皆さんへ【第17回】
校長より生徒の皆さんに第17回目の言葉です。
2024年4月8日(月)
生徒の皆さんへ
「傷つけない」
見方によれば、人は日々、互いの心を傷つけ合って生きているのではないか。自分の無遠慮な振る舞いが人を不快にし、意味ありげな他人の言葉に棘(とげ)を感じる、そうした、人を傷つけたり、傷つけられたりした経験は誰にでもあろう。
ただ、それが大きな問題にならないのは、多くの人が寛容な心で水に流しているからに違いない。
もちろん、時には傷つけられた怒りを溜めこむ人もいる。
まして、自分が貶(おとし)められ、相手が反省していないときなど、憤(ふん)まんやるかたないことだろう。だからといって怒りをぶちまければ、また新たに傷つくだけである。
まずは傷つく人を減らそう。そのためには、人の心の痛み、悲しみに共感できる力を、お互いもっと養おう。そうすれば、誰かが傷つきそうな場合に、早めにブレーキがかけられる。
傷つくのは自分だけではない。誰だって傷つくのである。それに、「人を呪(のろ)わば穴二つ」、人を傷つけようとすれば自分にも必ず返ってくる。そんな心の因果をよく心得て、人格を高め合いたい。
校長 中村三喜
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2024年4月5日(金)
校長より生徒の皆さんへ【第16回】
校長より生徒の皆さんに第16回目の言葉です。
2024年4月5日(金)
生徒の皆さんへ
「持ち味を発揮する」
持ち味や個性というとき、私達は多くの場合、個々の際立った能力や力量を言う場合が多い。
しかし、それだけでは,とりたてて才能といえるものがない人に持ち味や個性はないということになってしまう。
何が自分の持ち味なのかわからず、自分に自信が持てないとか、自己肯定感が低いと悩む人の多くは、持ち味や個性の捉え方に迷うあまり、思い詰めてしまっているのではないだろうか。
自分のことを知りたければ、まず外に出て、人と交わったり、一緒に体を動かしたりするといい。すると、自分が本当に好きなことや自信の持てる何かが見つかると思う。「持ち味は縁によって開く」ということである。
しかも、能力や才能だけでなく、たとえば花のように、そこにいるだけですでに持ち味を発揮している・・・・そのようなひとり一人であることを発見するのである。
そして、その気づきによって、自己評価はもちろん、他の人を見るときにも豊かな見方ができるようになる。それは、たとえば単に短所や長所を見るような、いわばテクニックではなく、短所も長所も含めて「あなたは大切な人」と称え、すべてを生かす眼差しである。
そのように見る素直な眼、心を具(そな)えていることが、私たち人間本来の持ち味ではないだろうか。
校長 中村三喜
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2024年4月4日(木)
校長より生徒の皆さんへ【第15回】
校長より生徒の皆さんに第15回目の言葉です。
2024年4月4日(木)
生徒の皆さんへ
「自然の理」
梅が咲いて鶯(うぐいす)が鳴き、桜がほころんで雲雀(ひばり)がさえずる。春から初夏へ、野山には草木が萌え、花々が咲き競い、小鳥たちが舞い歌う。小さい花も大きい花も、木々も小鳥たちも、それぞれに華麗で絢爛(けんらん)、精一杯の生命の躍動である。
しかし、この豊かな自然の装いも、形はさまざま、色とりどりの花や鳥があればこそであろう。「梅に鶯」の情景には、もとより格別の風情があるけれど、もしこの世に花は梅、鳥は鶯だけだったとしたら、とてもこの華麗さ、豊かさは生まれまい。さまざまでとりどり、百花繚乱の彩りこそが、やはり自然の理なのである。
お互い人間も、同じ自然の理の下に生かされている。さまざまに違う人が、とりどりの個性を持っていて、その違いがそれぞれに処を得て存分に生かされるとき、華麗で絢爛、豊かな文化の花が開くのだ。
違いを嘆かず羨まず、それぞれに力を尽くし、共々に助け合って、彩り豊かな人間社会を築く努力を重ねたい。
校長 中村三喜
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2024年4月3日(水)
校長より生徒の皆さんへ【第14回】
校長より生徒の皆さんに第14回目の言葉です。
2024年4月3日(水)
生徒の皆さんへ
「短所」
この世の中に完全無欠の人などはいない。百年に一人の天才であろうとも、所詮人は人である。言い換えれば、どんな人でも少しばかりは短所があろう。むしろあらを探せば、誰もがたくさんの短所と折り合いをつけて生きているのである。
そう考えれば、自分の短所やコンプレックスにいたずらに心を煩わす必要はない。もし、そうした思いから抜け出せないのなら、冷静に自分を見つめ、まず事実をそのまま受け容れることであろう。
そして次には短所を個性ととらえ、いかに長所に転換することができるかを模索すればよい。そもそも短所があることによって己を戒め、謙虚になることができるし、自己修養に務める姿勢にもつなげられるのだから。
これからの時期、多くの組織や学校では新入社員や新入生も基本を身に付け、本格的な仕事や学びが始まる。不安と期待が入り混じるなか、自分の短所をどこまで適切に処しきれるものか試してみよう。
真摯な努力さえ続けていれば、短所を克服したり、何かでカバーしたり、あるいは長所に変換したりしてきっと一皮むけることもかなうに違いない。
校長 中村三喜
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2024年4月2日(火)
校長より生徒の皆さんへ【第13回】
校長より生徒の皆さんに第13回目の言葉です。
2024年4月2日(火)
生徒の皆さんへ
「幸運」
乗ろうと思っていた電車に間に合いそうにない。諦めようかと迷ったが、ともかく急いで向ってみる。すると、その日に限って、電車が定刻より少し遅れていて乗ることができたといった経験が誰にでもあるのではないか。
どうせダメだとゆっくり歩いていれば、きっと、間に合わなかった。こうしたことは日常の些細な出来事で、たまたま運がよかったのだともいえよう。
ただ、人生において確かなのは、自らは何の努力もせずに、願っているだけでは、幸運を引き寄せられない。そして、しょせん無理だと考えてしまったら、どんな望みや目標も叶えられないということである。
諦めてしまうのは簡単だ。人情として、とかく易きに流されてしまいがちだけれど、それでは充実感も達成感も味わえまい。挑んだ結果、たとえ事が成らなくても、できるだけのことはやったと思えれば納得もいく。
何事も、とにかく最善を尽くしてやってみよう。希望を失わず、全力を傾けよう。もしかすると、あと一歩で目指す目標に手が届くかもしれないのである。
校長 中村三喜
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2024年4月1日(月)
校長より生徒の皆さんへ【第12回】
校長より生徒の皆さんに第12回目の言葉です。
2024年4月1日(月)
生徒の皆さんへ
「言葉」
大切な人を突然亡くし、悲嘆に暮れている相手には、どんな慰めの言葉も耳元を通り過ぎてゆくだけである。
そのような言葉は一面頼りないものだけれども、人の人生を左右する力をもっていることも事実であろう。“あの人の一言を支えに、今日まで生きてくることができた”、“この言葉に出会わなかったら、今の自分はない”。それほどの影響力があるのも、また言葉だといえよう。
「物言えば唇寒し秋の風(松尾芭蕉)」のように、口は災いのもとだからと口をつぐみ、互いに思ったことを言えないのは、人間として生まれ、ともに生きているものとしてあまりに侘しい。
たとえ、自分の気持ちなど分かるわけがない、同情はいらないと強がっていても、誰もが心の底では、自分のことを理解してほしいと思っているのである。
真実の言葉は必ず相手の心に届く。人の気持ちに寄り添い、真心からの言葉をかけ合いたい。相手を慮(おもんばか)りながら、自分の思いや考えを素直に伝えあいたい。
そこからお互いの理解と、温かく豊かな関係がきっと築かれてくる。
校長 中村三喜
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2024年3月29日(金)
校長より生徒の皆さんへ【第11回】
校長より生徒の皆さんに第11回目の言葉です。
2024年3月29日(金)
生徒の皆さんへ
「時間」
「楽しすぎて時間の経つのも忘れる」「忙しすぎて時間が足りない」「今日も一日が長い」。
ともすれば人は時間に対して様々な不平を言う。けれども、不平等だらけの世の中で、最も平等なものが時の流れであろう。
たとえば一日の長さは、世界中同じで、老いも若きも関係ない。天才も凡人も、富める人も貧しい人も変わりなく、しかも、過去も現在もやはり同じ。古代ローマの人々も、中国の皇帝も、現代人と同じ長さの一日を生きていたわけである。
それを時が経つのが早いと焦ったり、遅いと愚痴を言ったりするのは、人の勝手な受け取り方ではないだろうか。本来、時間を使う自分の心がけの問題であろう。
肝心なのは時間の支配者は自分だと自覚することである。活用法を工夫して、効率重視に徹したり、あえて何もしなかったりと、そんな実験もしてみればよい。試み次第では、有効な時間の使い方が新たに発見できるかもしれない。
常に充実した時を演出できる人でありたい。そんな「時の名人」ともなれば、人生も大きく変えられよう。
校長 中村三喜
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2024年3月28日(木)
校長より生徒の皆さんへ【第10回】
校長より生徒の皆さんに第10回目の言葉です。
2024年3月28日(木)
生徒の皆さんへ
「鏡」
鏡とはありがたい。いかなる時でも、まぎれもない自分を映してくれる。暮らしの中で鏡がなければどれほど不便であろう。自分の身のこなしが望ましい姿かどうかを映し見るために、鏡は不可欠な物である。
自分を映すという点では、お互いの心も鏡に似ているのではないだろうか。人と人が交流する際、感応しあうのが人間というものだろう。己の傲慢なふるまいは相手の傲慢を呼び、謙虚なふるまいは相手の謙譲を惹起する。
時に一方的な思い込みはあるものの、相手が自分に抱いている感情は、自分がその相手に抱いている感情が何がしか投影されているとは言えまいか。だからこそ、礼節を尽くせば、礼節を尽くされる。まさに鏡のごとくなのである。
人は一人では生きられない。人として生きることは、いかに他人とともに生きるかでもある。他人に誠実でありたいと望むなら、何が正しいのかを問いつつ、常に自分を省みる努力が求められよう。その試みのために、相対する人の振る舞いを我が姿見として、自らを律したい。
校長 中村三喜
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2024年3月27日(水)
校長より生徒の皆さんへ【第9回】
校長より生徒の皆さんに第9回目の言葉です。
2024年3月27日(水)
生徒の皆さんへ
「継続」
目指す結果を楽々と、早く手にできればいいけど、そうはいかないのがお互いの人生であり、勉強であり仕事である。
まして初めて経験することに取り組むとき、すぐに要領はつかめない。工夫を重ね、研鑽(けんさん)に努めても、なかなかうまくいかないのが普通であろう。
それなのに、人は往々にして、思うように成果が上がらないといって、自分は向いていないのではないか、他のことをやったほうがよいのではないかと心を悩ませる。
だが、自分に向いているかどうかなど簡単にわかるものではない。また、向いていなくてもやらなければいけない場合もあれば、向いていると思うことをやれない場合もある。それが現実の姿である。
だから、いたずらに心を惑わされず、ともかく目の前のことに没入しよう。これをやるのも一つの運命、必ず何らかの意味があるのだとの思いを定め、コツを会得できるまで、懸命に、なすべきことをなしていこう。
継続はけして裏切らない。これが自然の理であり、成功の鉄則なのである。
校長 中村三喜
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2024年3月26日(火)
校長より生徒の皆さんへ【第8回】
校長より生徒の皆さんに第8回目の言葉です。
2024年3月26日(火)
生徒の皆さんへ
「興味」
“こんなことができたらきっと楽しいだろうな”、“自分もやってみたいな”。ともすれば日常に流されがちな日々の中で、ふと心を惹かれることに出会うことがある。
そんなとき、“いつか機会があれば・・・・”といってやり過ごしたのでは、結局、何も変わらないまま終わってしまうことになりかねない。
確かに、初めてのことに手を出すのは億劫だったり、忙しくて時間が割けないという思いや、自分にできるだろうかと躊躇する気持ちも湧いてくる。だが、人生を充実させて生きるために大切なことは、やりたいことが見つかればやっていくという積極的な姿勢ではないか。
せっかく興味を抱いたのなら、一歩踏み出し、思い切ってやってみよう。そこからこれまで経験できなかった新しい世界が開け、日々の生活にも新たな彩りが生まれてくるにちがいない。
何よりいけないのは、やっておけばよかったと、あとで悔やむことだ。人生は一度しかないのである。
校長 中村三喜
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2024年3月25日(月)
校長より生徒の皆さんへ【第7回】
校長より生徒の皆さんに第7回目の言葉です。
2024年3月25日(月)
生徒の皆さんへ
「期する」
仕事やスポーツの上達は、一気にはいかないものである。一歩一歩、地道な修練を続けていくしかない。時に飛躍的に伸びることもあるけれど、それも過去の努力があったればこそで、一朝一夕に大きな変化は望めない。
だが、自分の心や行いは、変えたいと心に決めれば、すぐにでも変えられる。それを、自分はこんなものだとか、そんなに簡単には変わらないといって、うじうじ、ぐじぐじしていたら、変わるものでも変わらないのだ。要は変えようと決意するかどうか。その一点にかかっているといえよう。
同じものでも、心のありかたによって、明るくも見えれば暗くも見える。だから、同じことなら、まだまだ変われる余地を持っているのだと明るく捉え、自分の心がけや行動をどんどん変えていこう。それを積み重ねていけば、お互いの人生をより好ましい姿にきっと近づけていけるに違いない。
人の心は伸縮自在。持ち方一つで、心はいつもブルーオーシャン。青い大海原がどこまでも広がっているのだ。
経営学で言うところのブルーオーシャンは競争のない世界。レッドオーシャンは競争の激しい世界。どちらが企業として望ましいかと同じことだ。
校長 中村三喜