校長より生徒の皆さんへ【第10回】

校長より生徒の皆さんへ【第10回】

在校生の方へ

在校生の方へ

学校から在校生の皆さまへのお知らせを掲載します。

  • 2022年8月15日(月) [NEW]

    校長より生徒の皆さんへ【第10回】

    おはようございます。
    校長から生徒の皆さんへ、第10回目の言葉です。

     

    8月15日(月)

    生徒の皆さんへ

     

    「私を見ていてくださる人があり 私を照らしてくださる人があるので 私はくじけずに こんにちをあるく」

     

    これは、詩人である榎本栄一(1903~1998)さんの詩集『群生海』の中の「あるく」という詩だ。榎本栄一さんの詩は、日常の暮らしの中のどこにでもある光景をご自身の生活実感として、難しい用語はあまり使われずに生活者としての言葉で詠まれている。そこには、はっきりとした信念があり、私たちの人生の歩み方のお手本となる詩が数多くある。
    私たちは、日々の生活の中で様々な出来事に突き当たる。そして、いろいろな形で生きることの厳しさにつまずき、傷つき、不安になり、くじけそうになることがある。その時「孤独」を強く実感することになるのだ。

    しかし、私たちは、本当に孤独の身なのだろうか。よくよく考えてみると、この私は、私ひとりで成り立っているのではない。決して 一人で生きているのではない。お互いに支え合い、補い合ってすべての関係性の中にあると言える。

    すべての生きとし生けるものは、他者とのつながりの中でしか存在しえないのだ。「私を見ていてくださる人」とは、私を支えてくれているすべてのものと言い換えることができるのではないだろうか。

    しかしながら、私たちは、自己中心で自分の都合による物差しですべてを計っているため、私を支えてくれているすべてのものという光になかなか気づくことができないのだ。自分一人で輝いていると錯覚しているのかも知れない。私の無明を照らし出し、私自身の本当の姿を教えてくださり、同時に大きな安らぎを与えてくださる光の働きに気づくことが大切なのである。

    私たちは、生きることに戸惑い、闇を感じることが多い人生の中にあって、その人生を生き抜く力と勇気、そして、励ましの大きな光の中に自分が生きていることに目覚めることが最も大切なことだと思う。

    ちょっと難しかったかな?。

    校長 中村三喜

  • 2022年8月11日(木) [NEW]

    校長より生徒の皆さんへ【第9回】

    おはようございます。
    校長から生徒の皆さんへ、第9回目の言葉です。

     

    8月11日(木)

    生徒の皆さんへ

     

    「自己をならう」

     

    これは、鎌倉時代初期の禅僧:道元善師(1200年~1253年)の言葉だ。この言葉は、正法眼蔵の中の一節に書かれている有名な言葉だ。そして「仏道をならうというは、自己をならうなり。自己をならうというは、自己を忘るるなり」と続いている。

    私たちは、日常生活を送る中で、本当の自分を見失いそうになることがある。それは、これまで自分が培ってきた考え方が優先し、それゆえ自分の価値観で物事を考え、結果として自分以外の者に対し、その価値観を押し付けてしまうことがある。

    そして、その延長線上では、何が正しくて何が間違っているのか分からなくなり、自分自身を見失うことになるのだ。

    しかし、自分の価値観は大切なものなのだ。人それぞれは育ってきた環境は違い、それぞれに個性があり、一人ひとりの人間性や価値観があってこそ今の世の中が成り立ち、今の自分が存在するのだから。

    「自己をならう」とは、「自己を知り、自己を超える」と言い換えることができる。ただし、それは永遠の課題でもある。常に自己を知り、自己を超えられれば苦悩など感じなくなるだろう。

    では、「自己を知り、自己を超える」にはどの様にすればよいのかが問題になる。それは、自らのルーツも含め、人生そのものを知り、人生におけるあらゆる苦悩を見届け、それを超えることにほかない。

    そのためには、自らを振り返り、自らを見つめ直し、自らに問い掛けなければならない。その実践の結果として、自分自身について客観的な智慧や知識が増え、新しいモノの見方で自らを捉え直せるようになる。自ずと今までの苦悩が小さく感じられ、偏った価値観を捨て去ることができる。つまり、自問自答を繰り返し、常に自分自身の立ち位置を見極め、自らを見失わないように軌道修正していくことが大切なのだ。

    (私は7年ほど前に、禅宗の大本山「永平寺」(福井県)で2泊3日の研修会に参加した経験がある)

    校長 中村三喜

     

     

  • 2022年8月8日(月) [NEW]

    校長より生徒の皆さんへ【第8回】

    おはようございます。
    校長から生徒の皆さんへ、第8回目の言葉です。

     

    8月8日(月)

    生徒のみなさんへ

     

    「自らを見つめ直すことは とても勇気がいることである」

     

    この言葉は、私自身に当てはまる課題でもある。「自らを見つめ直す」ということだ。これは、良いことも悪いこともすべて含めて自分自身を知るということではないかと思う。良いことについて振り返ることは容易なのだが、逆に悪いことについて振り返ることほど勇気のいることはないだろうと思う。
    どうしても私たちは自分にとって都合の良いように物事を考えてしまいがちである。自らに尺度を設け、その基準の中で善悪を決め、行動に移す。はたして、その基準は誰にとってのものであり、その基準は正しいのだろうか。

    言うまでもなく誰でも嫌な経験を思い出したくないのは当然のことだろう。このことは、プライベートでもビジネスでも学びでも同じことが言えよう。しかし、自分にとって都合の悪いことを振り返り、見つめ直すことこそが自分自身を成長させ、そして、はじめて他者に対して思いやりのある気持ちや接し方ができるのだと思う。
    では、いつのタイミングで自らを見つめ直すのかといえば、私は風呂の中で一日の出来事について振り返るようにしている。皆さんも、それぞれの機会を捉えて、自らを見つめ直すのも方法なのではないか。

    でも、この繰り返しは、簡単なようで非常に難しいことだ。でも、このことの実践により自らの利点や欠点を知ることができ、自身の成長にも繋がり、同時に一日一日の生活が当たり前でないことに気づくことができると思う。

    天台宗の開祖・伝教大師最澄上人(767~822)が書かれた『山家学生式』の冒頭に有名な

    「隅を照らす」という言葉がある。解説書なども参考にしながら、どのような意味かと私流に解釈すると、「各人が夫々の立場、持ち場においてその責任をしっかり果たせる人になってほしい。その人がいるだけでその周囲だけでも明るく暖かくなるような人になってほしい」ということだと思う。まさに自らを見つめ直すことのできる人、その実践こそが「一隅を照らす」人ではないだろうか。

    校長 中村三喜

     

  • 2022年8月4日(木) [NEW]

    校長より生徒の皆さんへ【第7回】

    おはようございます。
    校長から生徒の皆さんへ、第7回目の言葉です。

     

    8月4日(木)

    生徒の皆さんへ

     

    「苦手な人と付き合う」

     

    自分とは異なる意見を持っていたり、違う生き方をする人間とは付き合わずに、自分の自由になる者としか仲良く出来ないという生き方では、将来を展望できないだろう。

    私はこの世界で人間ほど面白いものはないと思っている。年齢を積み重ね、経験を蓄積して変化していくからである。また、同じ1人の人間が様々な顔を持っているからである。この上なく優しく、そして時にはこの上なく残酷になるのが人間でもあるのだ。

    だからややこしいのだが、人が人と付き合うには、人間のそのややこしさに関心を持ち、それを辛抱強く理解して、そして楽しみたいと思うことが必要になる。

    つまり、人と楽しく付き合う第1歩は、自分とは異なるから嫌いというのではなく、違うから面白いという考えを持つことではないだろうか。

    逆説的だが、苦手な人と付き合う一番良い方法は、無理をしないということである。嫌でも避けて通るわけにはいかないと思い込み相手に合わせて無理をするから、とても疲れてしまうのであって、ますます向き合うのが苦痛になってしまうのだ。

    よく考えてみると、つい苦手な人を避けてしまうというのは、自分が変わるということや自分を否定されることを極端に恐れているからではないだろうか。だが自分の殻に閉じこもっているばかりでは、1人の人間としての成長はストップしてしまうのである。

    人は、わざわざ苦手な人と付き合わなくても、気の合う人とだけ付き合っていれば良いのにと言う。しかし、分かり合える人とばかり付き合うことは結局、自分という人間の幅を狭めることになりかねない。楽な分だけ、自分が成長することも期待できないのである。

    苦手な人と積極的に付き合うことによって人間としての幅がぐんと広がり、どうやって相手に心を開かせるかという勉強をすることにもなる。その勉強は、好きな、分かり合える人との付き合いをもっと深いものにしてくれるはずだし、新たな出会いのチャンスを多くしてくれることにもなる。

    より多くの人と付き合えるということは、自分が生きていく上での様々な可能性を開けることである。だから違うということを認め合い、同時に成長しようという気持ちを持って、苦手な人との付き合いを大いに楽しんでみてはどうだろうか。

    中村三喜

     

     

     

  • 2022年8月1日(月) [NEW]

    校長より生徒の皆さんへ【第6回】

    おはようございます。
    校長から生徒の皆さんへ、第6回目の言葉です。

     

    8月1日(月)

    生徒の皆さんへ

     

    「俺は 人間の いいところを見る。その方が 面白いよ」

     

    これは、「寅さん」こと渥美清さんの言葉だ。「男はつらいよ」シリーズは全48作品を数える東京下町の人情味あふれる作品だが、この言葉からも主人公の人柄そのままの渥美さんのあたたかい眼差しが伝わってくる。
    どんな人にも個性がある。個性は人の目に、ときに長所、ときに短所として映る。そして、長所、短所と判断する根拠は、これまで生きてきた中で培われた自分の価値観だ。この人はこういう人柄だと説明する時に、同じ人を表現しているのに人によって捉え方が違うことがある。それは、個人の見方や相手との関係性が異なるためだ。

    価値観は人それぞれだ。しかし、日々の生活の中で接する一人ひとりのいいところを見つけることを習慣にしていけば、多くの人のいいところに気づき、いいところをたくさん持った人々に囲まれて生活している自らの環境に感謝の気持ちが持てるのではないだろうか。
    昔、仏の世界に、常不軽菩薩という方がおり、この方は、出会う人すべてに敬いの気持ちを持って合掌礼拝をしたという。信仰がある人でも、そうでない人でも、どんな人であろうと、みんな仏の子として合掌された。そして「あなたは仏になられる方なのだから、自分を大切にしてほしい」と語りかけられたと伝わっている。
    日常生活の中で相手を仏と思い敬うことは難しいかもしれない。しかし、相手の異なる個性を尊重し、相手への敬愛の気持ちを持って接すれば、自然と自らの言動も思いやりを持ったものになるだろう。

    そして、相手を敬う気持を持てば、相手のいいところがより多く見えてこよう。日々の生活の中で、関わる人々のいいところをたくさん見つけることができれば、見える世界が変わり、人生はとても豊かなものになるのではないだろうか。

    校長 中村三喜

     

  • 2022年7月28日(木) [NEW]

    校長より生徒の皆さんへ【第5回】

    おはようございます。
    校長から生徒の皆さんへ、第5回目の言葉です。

     

    7月28日(木)

    生徒の皆さんへ

     

    「長い目で見れば人生には無駄がない」

    (本田 宗一郎 : 本田技研工業 創業者)

     

    人生には、様々な試練や転機がある。試験や就職、恋愛や結婚等々。私たちはこのような場面で、もちろん誰しもが失敗するよりも成功することを願っている。しかし、私たちは、これらがいつも成功するとは限らないことも過去の経験から知っている。人生には無駄な経験は何一つないのだ。どんな場合でも、その人の捉え方一つで後の人生に役立てることができるのである。

    「ホンダ」の創業者である本田宗一郎氏は生前次の様に述べていたと言われている。「私の現在が成功というなら、それは過去の私の失敗が全部土台作りをしていたからだ。仕事は押しなべて失敗の連続である。99%は失敗の連続であった。そして、その実を結んだ1%が現在の私である。」

    また、仏教を開かれたお釈迦様は29才の時に出家され、35歳の時に菩提樹の木の下で悟りを開かれ仏陀(目覚めた人)となったという。これはよく知られている事実だ。私たちはこの場合、悟りを開かれた事ばかりに目がいき、お釈迦様の6年間の修行をつい否定的に考えてしまいがちだが、お釈迦様が悟りを開かれたのは、6年間の修行があればこそではなかったか。

    よく私たちも一日ボーッと過ごしてしまった日の夜に「今日は無駄な時間を過ごしてしまったな」というような思いを持つことがあろう。でも本田宗一郎氏の失敗、お釈迦様の6年間の修行、そして私の一日は本当に無駄なものなのだろうか。

    本田宗一郎氏やお釈迦様のように一見失敗とか無駄だと思えることでも、そのことの積み重ねがあればこそ、それが花開くこともあるのだ。

    しかし、必ず花開くとは限らない。いや花開かないときの方が多いかもしれない。私たちの人生は一見すると無駄の連続かもしれない。だが、どんなに無駄と思える時間も、長い目で見れば何かの教訓になっていることを忘れてはならない。

    何が無駄で何が無駄でないか、これは誰にもわからない。たとえば私が無駄だと思って放っておいたことを他の方が行って大成功を収め後で悔やむこともあるかもしれない。

    「人生には無駄がない」という言葉は、「忙しい、忙しい」が口癖の様になって、何でも先延ばしにして結局何もしようともしない私たちに「人に勝つより自分に負けないように生きていって下さいよ」と教えているのではないだろうか。

    校長 中村三喜

  • 2022年7月25日(月) [NEW]

    校長より生徒の皆さんへ【第4回】

    おはようございます。
    校長から生徒の皆さんへ、第4回目の言葉です。

     

    7月25日(月)

    生徒の皆さんへ

     

    「ニューノーマル時代に生きる」

     新型コロナ感染症のパンデミックをきっかけに世界は大きく変容した。そして、コロナ禍からポストコロナ時代に向けて社会全体が移行しつつある。私たちは「ニューノーマル(新しい常識)の時代」に生きるということについて、しっかりと考える必要があるだろう。

    ニューノーマルとは、社会に大きな変化が起こり、変化が起こる以前とは同じ姿に戻ることができず、新たな常識が定着することを指す。

    実は「ニューノーマル」という言葉は今出現した言葉ではない。2000年代初頭にネット社会が到来したことにより、これまでのビジネスモデルや経済論理が通用しなくなった後にも、またリーマンショックの金融危機の後にも、資本主義社会から持続可能な社会への変革が起こった時にも、このことが論じられているのである。
    今回の新型コロナ感染症拡大後のニューノーマルは、感染リスク低減のため人と人との接触を減らす、人と人との距離をとるなどの感染予防を前提とした社会活動・経済活動・新しい生活様式への移行となる。0
    ここで、日本で馴染みの深い有名な句、『平家物語(琵琶法師語り手)』の語り出しの句を紹介したい。「祇園精舍の鐘の声、諸行無常の響きあり。娑羅双樹の花の色、盛者必衰の理をあらはす。奢れる人も久しからず、ただ春の夜の夢のごとし。猛き者もつひにはほろびぬ、ひとへに風の前の塵に同じ」。

    この意味は、平家の時代が終了して世の中が変わったことから、この世は常に変わりゆく「諸行無常」と、どんな人も必ず衰えるという「盛者必衰」を表現しているが、実はこれだけを意味しているものではない。「この世の全てのものは絶え間なく変化し続けている」ということも伝えているのである。

    つまり、人生や命、繁栄が「無常」とあれば、この世において生命が誕生すること、発展・成長すること、人々が幸せになることなども、これまた「無常」であるということを言っているのである。
    だが、ニューノーマル時代への移行というのは、過去にも繰り返されたごく自然な仕組みであり、それはいわゆる「無常」の世ではなく、人が幸せになるための変化であることをこの句から教えられる。
    その前提において、今回のニューノーマルへの移行については、対人関係への影響が強いため、コミュニケーション不足による対人トラブルや、孤独化による心的ストレスがこれまで以上に引き起こされてしまうことが危惧されるのだ。

    そこで、環境の変化、その影響を受けた我々の人間関係性の変化を、心の中にそれぞれがうまく取り込むことが重要になると考えられるのだ。

    物事に対する受け入れ方や考え方、捉え方によっては、想像していたものとは全く違う景色が現れることを知るべきであり、そうすることで解決する問題も多くあると考えることもできる。一定ではなく、状況は必ず変化する。この平家物語の句から、無常の世に生きる知恵を授かることができるのだ。

    ちょっと難しかったかな。でも、考えてみよう。

    校長 中村三喜

     

     

  • 2022年7月21日(木) [NEW]

    校長より生徒の皆さんへ【第3回】

    おはようございます。
    校長から生徒の皆さんへ、第3回目の言葉です。

     

    7月21日(木)

    生徒の皆さんへ

     

    「どんなところにも必ず生かされていく道がある。」

     

    「人の命とはつくづく不思議なもの。確かなことは自分で生きているのではない。生かされているのだということです。どんなところにも必ず生かされていく道がある。すなわち人生に絶望なし。いかなる人生にも決して絶望はないのだ」。

    これは「無手無足」という自らの障害を受け入れ、明るく生きることで人々に生きる力と輝きを与えた偉大な人物、中村久子さん(1897~1968)の言葉です。

    久子さんは、明治30年、岐阜県高山市で生まれました。3歳の時に、凍傷がもとで突発性脱疽となり、左手が手首から崩れ落ち、脱疽が転移していた右手と両足を切断、両腕の肘から下と両足の膝から下を3歳の時に失うという絶句するような過酷な人生を背負わされた。
    障害者でありながら、自立した人として強く生き抜いた久子さんという女性の強い心と輝きを

    感じます。そして、どんなに辛くても苦しくても、自立し周囲と対等に付き合える自分になると

    いう決意に、自分の境遇をしっかり引き受けて、そこから立ち上がっていく様子が窺えるのでは

    ないだろうか。

    私たちは、日常生活の中で知らず知らずのうちに、自分と他人の違いを区別したり比較したりする。他人との生活や仕事、学歴、容姿・・・。挙げればきりがない。それはやがて自他を比べて妬んだり、うらやんだりするようになり、私たちはどんどん苦しい状況になってしまうのだ。

    久子さんは、両手両足がないのが私自身であり、人と比較してどうなるものでもないことを身を持って知らしめてくれている。そして、「両手両足がない体のお蔭で、かけがえのない人生を豊かに生かさせていただいた」という久子さんの言葉から全てを引き受けて生きられた力強い「心」というものが私たちに伝わってくる。

    「どんなところにも必ず生かされる道がある」。生きた久子さんのこの言葉が、私自身に試されているような気がする。

    校長 中村三喜

  • 2022年7月18日(月) [NEW]

    校長より生徒の皆さんへ【第2回】

    おはようございます。
    校長から生徒の皆さんへ、第2回目の言葉です。

     

    7月18日(月)

    生徒の皆さんへ

     

    「人見るもよし 人見ざるもよし 我は咲くなり」

    この言葉は、代表作に「友情」、「愛と死」等がある武者小路実篤さんという近代日本の作家が残した言葉です。本当は、この言葉の前に「天与の花を咲かす喜び 共に咲く喜び」という言葉がつき、「天与の花を咲かす喜び 共に咲く喜び 人見るもよし 人見ざるもよし 我は咲くなり」と続きます。
    自身を花に例えたこの言葉を直訳すると、「天から与えられた自分自身を咲かす喜び、他者と共に咲く喜び、そして、人が自分を見ていても、見ていなくても構わない、私は私として咲きます」となるのだろうか。

    植物が人の目を気にせず、季節が廻ればその花を美しく咲かせるように、私たちも自然のままに、自らの尊い命を咲かせればいいという意味だと思う。社会生活を送る上で、時に私たちは他人の評価や世間の価値観に振り回されてしまいがちだ。しかしこの言葉は、一人ひとりそれぞれが、かけがえのない命を、自分らしく凛とした姿勢で生きていけばいいのだと伝えていると思う。

    これは、この世にただ、私だけが尊いという意味ではなく、また、他人と比べて自分の方が尊いということでもない。本当の意味は、私たち一人ひとりが、「この世にただ一人の、誰とも代わることのできない人間として、かけがえのない尊い存在、尊い命」であるということだろう。それぞれの個性の違いを認め合い、優劣なく、それぞれすべての命が尊いのだと認識することに他ならない。

    寒い冬を乗り越え春を迎え、そして夏に至るとき。草花が芽吹き、花が咲き、世界が花の色で色彩豊かに染まり、生命力あふれる季節に。また、新しい生活を迎えた生徒や学生が、それぞれの美しいいのちの花を咲かせることを願ってやまない。

    校長 中村三喜

     

     

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