在校生の方へ
学校から在校生の皆さまへのお知らせを掲載します。
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2024年7月26日(金) [NEW]
7.26(金)お釈迦様
2024年7月26日(金)
生徒の皆さんへ
「天上天下唯我独尊」お釈迦様
お釈迦様は「天上天下唯我独尊」とおっしゃいました。一見すると、この世の中でただ我一人だけが尊いのだと独善的にとらえがちですが、その根底にあるのは、他の人も同じように絶対的に尊いのだという考え方です。
自分に良いところも悪いところもあると同様に、他の人にも良いところと悪いところがあります。お互いの良いところを認め合って、人間として成長する。自分がそうであるように、他のみんなも自己実現をしたいし、幸せになりたいと思っています。自分を認めることは、相手をも認めること。そのことを理解することが、人間関係がうまくいく基本だと言っているのです。校長 中村三喜
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2024年7月25日(木) [NEW]
7.25(木)雨が降れば
2024年7月25日(木)
生徒の皆さんへ
「雨が降れば」
雨が降れば傘をさす。傘がなければ風呂敷でもかぶる。それもなければ濡れるしかない。
雨の日に傘がないのは、天気のときに油断して、その用意をしなかったからだ。雨に濡れて、はじめて傘の必要を知る。そして次の雨には濡れないように考える。雨が上がれば、何をおいても傘の用意をしようと決意する。これもやはり、人生の一つの教えである。
わかりきったことながら、世の中にはそして人生には、晴れの日もあれば雨の日もある。好調の時もあれば、不調の時もある。にもかかわらず、晴れの日が少し続くと、つい雨の日を忘れがちになる。好調の波が続くと、つい行き過ぎる。油断する。これも、人間の一つの姿であろうか。
このことを戒めて昔の人は「治にいて乱を忘れず」と教えた。仕事にしても何にしても、この道理はやはり一つである。
雨が降れば傘をさそう。傘がなければ一度は濡れるのも仕方がない。ただ、雨が上がるのを待って、二度と再び雨に濡れない用意だけは心がけたい。雨の傘、仕事の傘、人生の傘、いずれにしても傘は大事なものである。
校長 中村三喜
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2024年7月24日(水) [NEW]
7.24(水)暗示
2024年7月24日(水)
生徒の皆さんへ
「暗示」
よく雨男とか晴れ女という。その人がいると急に雲行きが怪しくなったり、反対に、雨の予報だったのが不思議と降られなかったり、それが幾度か重なるうちに、自分は雨男だとか、あの人は晴れ女だと信じるようになる。
冷静に考えれば、その人がいるからといって天候が変わるはずはない。巷間、口にされるいわゆるジンクスなども同じ類であろう。ただ、そうしたことをすべて非科学的だとして、頭から否定する必要もまたないのではないか。
もちろん頑迷に陥って、他人の言葉や助言に耳を貸さなくなってはいけない。しかし、何かを自分に言い聞かせ、暗示にかけることで、心に安寧、平安がもたらされるのである。
例えば、あることがきっかけで自分は運が強いなと感じる。そんな出来事が一度ならず起きると、それが確信に変わり、ついには揺るぎない信念となる。そうすれば、自分は運が強いのだから必ずうまくいくはずだと動じることなく事に処すことができて、さらなる成功に結びつく。
何かを心の支えとしてそれを信じることも、力強く、心穏やかに生きていくためには大切なことだと言えるのではないだろうか。校長 中村三喜
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2024年7月23日(火) [NEW]
7.23(火)偉い人と立派な人
2024年7月23日(火)
生徒の皆さんへ
「偉い人と立派な人」
私のお袋は生前口癖のように「世間には偉い人は大勢いるけれど、立派な人はめったにいない。おまえは偉い人にならなくてもいいから立派な人になっておくれ」と言っていた。
私はそれを聞いてなるほどと思ったのと同時に、「立派そうな人は大勢いるけれど、本当に立派な人はめったにいない」という言い回しが浮かんできて、その言葉に自分で何度も頷いたものだった。
戦後の民主主義は、すべての人に平等に出世できる機会を与える機会均等主義という考え方を通して平等を現実のものとした。
しかし、その一方で、教育過熱という塾漬けの歪みを子供に押しつけ、ただテストに強いだけの人間が世の中で押し合いへし合いしているだけの社会、すなわち人間味に欠ける、どこかおかしい社会も現出してしまった。
このような世の中で本当に立派な人を輩出することができるのだろうか。それだけに今、母親の言葉が胸に沁みるのだ。校長 中村三喜
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2024年7月22日(月) [NEW]
7.22(月)メリハリ
2024年7月22日(月)
生徒の皆さんへ
「メリハリ」
人間は、生きている上で、ずっと頑張り続けることは出来ない。時には頑張り、時にはのんびりと心身を休める時が必要なのだ。
私たちはどうしても日々の生活を送る中で、ONとOFFのバランスを見失い、頑張り過ぎたり頑張らなさ過ぎたりすることがあるのではと思う。そうなると心身のバランスが崩れ、健康的な生活を維持することができなくなる。
例えば、輪ゴムの場合、伸縮を利用して何か物を留めるときに伸ばして使う。その分、輪ゴムは劣化するのではないか。さらに、長期間伸ばした状態にしておくと、その劣化は早くなると思う。しかし、使わないときは、伸びない状態のままなので輪ゴムに負荷はかからず、劣化は防げる。
人間も同じで、頑張り過ぎがたたって病気や怪我をしたり、頑張り続けると中だるみしたりしてしまう。やはり、メリハリをつけてONとOFFを上手く切り替えることが大切だと思う。
世の中には「中道」という言葉がある。一方にかたよらない穏当な考え方・やり方、執着を離れ、正しい判断をし、行動するという意味が込められているのだ。
つまり、私たちは心身とも健康で生きる上で、何事も両極端にするのでなく、一方に片寄らず「バランス」を計り、「メリハリ」をつけることが大切なのだ。是非一度、自分自身を見つめ直してみることが大事なのではと思う。校長 中村三喜
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2024年7月19日(金) [NEW]
7.19(金)まず聞こう
2024年7月19日(金)
生徒の皆さんへ
「まず 聞こう」
「聞く」ということは私たちにとってどのようなことなのだろうか。ただ単に自分の耳で音を聞くだけではないだろう。聞くという行為には、自らが他人の声を聞くことや他から聞こえる様々な音を拾って自らが考えることなのではないのか。
3年前5歳だった孫娘との会話の中で今でも忘れられないことがあった。それは、孫からの他愛もない質問に対し私が説明する中で、わからない言葉や納得のいかないことがある度「どうして」、「なぜ」と尋ねるのだ。
そこで私が「黙って最後まで聞きなさい」と 言ってしまったのだ。しかし、よくよく考えてみれば、孫に対し間違ったことを言ってしまったと反省したのだ。
どんな場合でも、どんな相手であろうとも、コミュニケーションをする場合に一番大切なことは、「素直に聞くこと」だ。しかしながら「素直に聞く」ということは一見簡単そうに思える
が、実は何よりも難しいことだ。自分にとって都合の良いように聞くことはできても、話す相手の思いをそのまま間違いなく聞くことは容易なことではない。
素直に聞くとは、まさに5歳児の孫娘の聞き方こそが「素直な聞き方」だったのだ。わからない言葉が出てきても、納得のいかない話でも、何もかもわかったような顔をして聞きことほど、
素直でない聞き方はないと思う。わからないことは、わからないと尋ね問うていくのが素直な聞き方なのではないだろうか。校長 中村三喜
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2024年7月18日(木) [NEW]
7.18(木)ゴール
2024年7月18日(木)
生徒の皆さんへ
「ゴール」
一念発起し、遊びも趣味も楽しみも、あらゆるものを我慢して努力した結果、やっと叶えることができた。満足感と安堵感を味わい、ようやく報われたと思った矢先に、新たな課題が生じてくる。
お互いの人生は、一つ事が成ったとしても、また大きな山が立ちはだかる。それは果てしない旅、終わりのない苦労の連続かもしれない。
だがいったん目標が達成されると、人は往々にして緊張の糸が切れ、さらなる意欲を失ってしまいがちである。だから、次々と生まれる課題は、気力を保ち、成長を続けさせる原動力ともいえよう。
いくつ峠を越えれば真の達成感を得られるのかはわからない。それでもゴールを目指して懸命に進んでゆこう。一つひとつ、目の前の山坂を超えるため、ひたすら歩んでゆこう。
そうした一歩一歩の積み重ねこそが人生であり、その過程でどれだけ力を尽くすかによって人生の価値や生きがいが決まるからである。次はどんな山が待ち構えているのだろうか。校長 中村三喜
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2024年7月17日(水) [NEW]
7.17(水)ドラマ
2024年7月17日(水)
生徒の皆さんへ
「ドラマ」
世の中では、誰でも仕事や人生において突如、窮地に陥ることがある。「なぜ悪条件ばかり重なるのか」「こんなときに事故に遭うなんて」といった愚痴がついこぼれる。人生100年時代、平穏のうちに過ぎればそれにこしたことはないけれど、そうはうまく運ばない。時に悲劇に見舞われるのも人生である。
劇と言えば日常、私たちはテレビや書物を通してたくさんのドラマを楽しんでいる。おもしろいドラマの条件は、主人公の目の前に高い壁が立ちはだかっていること。そして主人公が絶体絶命のピンチから脱出し、大逆転するところに気分爽快、ドラマの醍醐味を味わっているものである。
とすれば、現実に危機に直面したとき、これもまたドラマの舞台、自分をその主人公に見立てみたらどうだろう。不屈の闘志で事態を打開できればまさにヒーロー、観客ではなく主人公としても極上の喜びを味わえるのではなかろうか。
嘆くのはほどほどにして前向きに。逆境こそ最高のドラマの始まりだと捉え、まずは主人公らしく、自分の足で立ち上がることから始めてみようではないか。校長 中村三喜
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2024年7月16日(火) [NEW]
7.16(火)チャンスの神様
2024年7月16日(火)
生徒の皆さんへ
「チャンスの神様は前髪しかない!」
私の母は小学生の私に、よくこう言っていた。当時の私は「前髪しかないなんて、ずいぶんヘンな神様だな」と思っていましたが、後に、イギリスのイートン校の校訓だと知りました。そして、(株)カスミストアー(現カスミ)に就職した時、創業者社長:神林照雄氏から、経営者として忘れてはならないことの一つとして、まったく同じことを言われたことを覚えています。
「チャンスだと思ったらすぐ掴む。その後、活かす方法を考える。そのためにいつも考え続ける。頭の隅にあればこそ、チャンス到来を見逃さない」ということだ。
人生は思うようにはいかない。いつも前進あるのみ。済んだことはくよくよしない。一晩休んだら、嫌なことは忘れる。そして、ちゃんと食べる。好きなことをする。
私の情熱と自立心を支えている言葉の一つだ。校長 中村三喜
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2024年7月15日(月) [NEW]
7.15(月)こわい人
2024年7月15日(月)
生徒の皆さんへ
「こわい人」
大人の世界では、人の上に立って立派な仕事をしていた人が、いつしか権力を振りかざすようになったり、堕落したりして人を失望させることがしばしば起こる。
要因は様々で容易に窺い知れないけれど、一つ指摘されるのは、当人のそばからこわい人がいなくなったからだという。
どんな人でも最初から優れているわけではない。芸事、スポーツ、学業や仕事にせよ、師と言えるこわい人がいて、その人による厳しい指導の結果、技芸が上達したり、社会人として成長したりできる。
指導を受けている期間こそ、逃げ出したいとか、早くいなくなってほしいと思うことがあっても、後になればなるほど、そんなこわい人の有難さに気づくのである。
ただ、どれほど精進していても、こわい人がいなければ、自制心が効かなくなり、省みる心を見失いがちになってしまう。それは人の業の深さというものなのだろうか。
そうならないために、自分を律する努力は怠るまい。そして、心の中にあのこわい人の存在を忘れないようにしたいものである。校長 中村三喜
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2024年7月12日(金) [NEW]
7.12(金)この一日
2024年7月12日(金)
生徒の皆さんへ
実質明日から夏休みに入りますが、皆さんにとって毎年迎える夏休みに同じ夏休みはありません。
それだけに、自分の成長に合わせた夏休みの目標や目的を明確にして、長い休みを充実したものにしましょう。
その時大事なことは、途中で諦めてしまうような目標ではなく、続けられる目標を設定することです。「塵も積もれば山となる」であって、少しづつの集積が大を成すのです。
「続ける」ことができれば、結果につながります。自分のペースを守って自学自習を続けてみてください。皆さんの人生にとって必ず役に立つと思います。また、「人のために役立つ」仕事や手伝いなどの経験もいいのではないか思います。
休みは長いですから、体調には気をつけて、自分のペースを守って頑張りましょう。
そして、私から全員に対してお願いです。いいですか、「ルール違反は絶対にしない」こと。若い皆さんのこれからの人生を台無しにしてしまいます。
今日から毎日(土・日曜を除く)皆さん宛に一文を送ります。何か参考になればと思います。
「一日一日を大切に」
私たちの日々の暮らしは、当たり前の小さな幸福に囲まれている。仕事前に飲む一服のお茶、休み時間に同僚と語り合う時間、そして家族との団欒。生徒であれば、学校での友達との語らい、教師との触れ合い。
いや、それ以前に、朝起きて目一杯に伸びをして息を吸える、大きな声で笑える。好きな所へ自由に出かけられること、それ自体なんて素晴らしいことではないか。
ところが、それは当たり前ではなく、小さな幸福がかけがえのないものだと知るのは、きまってそれらが失われる間際で、手放した後の哀しみは計り知れない。平和と健康はそれほど「有り難い」ものなのである。だからこそ、一日一日を大切に生きたい。「諦めた」「後でやろう」「もう駄目だ」などと安易に言ってはならない。
当たり前の一日を過ごすべく闘っている人が多くいる中、感謝の心もなく、自分自身に悔いが残る一日を過ごしていては、もったいないと言えるのではないか。
一片の雲もない美しい朝。いつものように一日が始動する。それは当たり前のようでいて当たり前ではない。謙虚な気持ちで一日一日を、そして一年一年を、さらに一生を送りたい。
本年8月19日で満80歳を迎える私の実感です。校長 中村三喜
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2024年7月8日(月) [NEW]
生徒・保護者の皆様へ
この時季、異常な暑さが到来してますが、お変わりございませんか。
さて、「校長への便り」を開設いたしましてから1カ月超が経過し、この間に10通の便りをいただきました。(7月7日現在)ありがとうございます。
なお、ご連絡のとれる皆様方にはお返事を直接差し上げておりますが、無記名のものにつきましては直接お返事を差し上げることはできません。
しかし、投書のすべてについて私が責任をもって対処しておりますので、念のためお知らせいたしておきます。
今後共、貴重なご意見をよろしくお願い申し上げます。
2024年7月8日
水戸平成学園高等学校
校長 中村 三喜 -
2024年6月21日(金)
生徒の皆さんへ
2024年6月21日
今朝9:50に、2名の女生徒が、男子生徒が拾ってくれた10円玉を預かって私に届けてくれました。
10円ぐらいと思わずに、10円でもと考える、その誠実な気持ちと行為に対し心よりお礼を言います。
この姿は、私が目指している生徒像の一面を体現してくれています。本当にありがとう。
水戸平成学園高等学校
校長 中村三喜 -
2024年6月11日(火)
生徒の皆さんへ
2024年6月10日
今日の14:30に、2人の女生徒が、多目的教室で落とし物の10円玉を見つけて届けてくれました。
10円ぐらいと思わずに、10円でもと考えて届けてくれました。10円でも落し物は落とし物と考える素直で正直な気持ちに感謝します。本当さわやかな気持ちになりました。
水戸平成学園高等学校
校長 中村三喜 -
2024年5月2日(木)
校長より生徒の皆さんへ【第35回】
校長より生徒の皆さんに第35回目の言葉です。
2024年5月2日(木)
生徒皆さんへ
今日で春休は終了ですが、明日から4日間の連休がありますので、本格的な授業開始は5月7日(火)からになります。
休み期間中に皆さん一人ひとりそれぞれの経験をしたと思います。充実した休みだった人、もの足りなさを感じた人、様々でしょう。
でも、誰もが連休明けからの学校生活に、その経験を生かしてください。そういう積み重ねが知らず知らずのうちに人を成長させるのです。自分のペースを守って頑張りましょう。
「そこにある山」
人はなぜ山に登るのか。その問いには、ある名登山家の「そこに山があるから」という答えが知られている。たしかに吸い寄せられるように、時に人は山の魅力の虜となる。
ただ、山を人生で経験する試練と見立てれば、人は誰でも、山また山を越える日々を延々と強いられているとも言えまいか。とすると、「そこに山があるから」との言葉には、所詮登るしかないという切羽詰まった境地も窺える。
低い山に高い山、穏やかな稜線の青山や険しい尾根が続く雪山・・・・。自分がこれから登る山に、一つとして同じ山容が現れることはあり得ない。大切なのは、たとえどんな山が姿を見せようと、断じて登頂を果たすという覚悟を持つことであろう。
苦しいのは当然であるけれど、山頂の絶景を目にする喜びを味わい、沢で見かけた名も知らぬ花にも癒しを得ることもある。決して辛いことばかりではない。
ゆっくりでいい。登り続けることである。今日の山上の天候を窺いつつ、いま自分が目指すべき頂を確かな足取りできわめてゆこう。
校長 中村三喜
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2024年5月1日(水)
校長より生徒の皆さんへ【第34回】
校長より生徒の皆さんに第34回目の言葉です。
2024年5月1日(水)
生徒の皆さんへ
「絵は自在に」
子どもが描く絵はいずれも天才の冴えがある。ところが小学生になり、中高生から大人へとなるにつれて、次第に描けなくなってしまう。
うまく描かなければという焦り、恥はかきたくないといった緊張。あるいは、技法を知らないからという言い訳や理屈が邪魔をして、筆が一向に進まなくなるのである。
絵を描くコツは、こうした上手に描こうという捉われから、まず己を解放するところにあるのではないだろうか。他人の目を気にせず、自分らしさに徹すれば、描く楽しさを思い出し、再びうまく描けるようになるに違いない。
人生も同じで、幼少のころ思い描いた将来は自由自在であったはずだ。それが年を重ね、学年の階段を上がるうちに、過去の成績や他人との比較、社会の価値観に影響を受けて、つい思考が窮屈になっていく。失敗作にならないよう汲々としてしまうのかもしれない。
自分の人生の絵を描けるのは自分だけ。大切なのはその絵を自在に描くことではあるまいか。さあ、今こそ、夢のある絵を描いてみよう。
校長 中村三喜
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2024年4月30日(火)
校長より生徒の皆さんへ【第33回】
校長より生徒の皆さんに第33回目の言葉です。
2024年4月30日(火)
生徒の皆さんへ
「引き受ける」
学校や職場や日常生活で、周囲の人に何か事を頼まれる。あなたを見込んでとか、君にしかできないと言われたら、自信がなくても、つい引き受けてしまうのがお互い人間の一面だろう。
そしてともすると、やっぱり自分の力量では無理だ、断ればよかったと悔やむ。約束の期日が近づくにつれどんどん気が滅入ってきて、現実から逃げ出したくなる。
だが、よく考えてみれば、あてにされるうちが花。声がかからなくなったら確かに楽にはなるけれど、一方できっと淋しくなるに違いない。
だから、いったん引き受けたからには後悔したり、逃げ出したりするのはやめよう。一度逃げてしまうと、次もまた逃げ出してしまう。そうなってはそのうちに信用を失って、もう誰も頼ってくれなくなる。
これは自分の可能性を拡げる絶好の機会が与えられたということ。頼りにされたことを意気に感じ、その期待に応えるべく、とにかく精一杯取り組みたい。
そうしてこそ成果もあがり、自らの新たな力、成長の糧となっていくのである。
校長 中村三喜
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2024年4月29日(月)
校長より生徒の皆さんへ【第32回】
校長より生徒の皆さんに第32回目の言葉です。
2024年4月29日(月)
生徒の皆さんへ
「吉田松陰の名言」
私の好きな大河ドラマの一つだった『花燃ゆ』(2015年1月4日第1回、12月22日最終回)は、幕末から明治維新にかけて、そして明治政府で活躍した志士たち(高杉晋作、山形有朋、伊藤博文等々)を育てた吉田松陰(1830~1859年)を題材にしたものでした。
その吉田松陰に、
「夢なき者に理想なし 理想なき者に計画なし 計画なき者に実行なし 実行なき者に成功なし、ゆえに、夢なき者に成功なし」という名言がある。
すなわち、第一に夢を持つことが大切なことは言うまでもないが、理想(目標)、計画、行動の、どれ一つが欠けても成功することはできないと言っているのである。
松蔭は、「PDCA cycle」(plan-do-check-action cycle)の概念を、当時から実践していたといえるのである。
校長 中村三喜
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2024年4月26日(金)
校長より生徒の皆さんへ【第31回】
校長より生徒の皆さんに第31回目の言葉です。
2024年4月26日(金)
生徒の皆さんへ
「日常」
毎日が同じことの繰り返し。単調な生活でつまらない。お互いときにそんな日常に不満を抱くことがある。
しかし、コロナ問題や今回の能登半島地震のように、何か事が起こると、人は、それまでの平凡な毎日がいかに貴重なものであったかに気づかされる。人生で出遭うさまざまな不慮の出来事は、当たり前がどれほど幸せなことかを知る機会でもあるといえよう。
大切なのは、事もなく過ぎていく日常のありがたさを噛みしめること。そして、そのうえで、日々を新たな気持ちで送ることではないか。
たとえ同じことの連続のように思えても、まったく同じ毎日というものはあり得ない。よく見れば周りの自然は時々刻々に移り変わっているし、人も今日は昨日より一日経験を重ね、物事に習熟することにもなる。心の持ち方次第やり方次第で、繰り返される日常の中に新しい発見や進歩や楽しみを見出すことができるのである。
昨日と変わらぬ朝と夜を迎えられることに感謝したい。変わらぬところに喜びを感じて、変わらぬ一日一日を精一杯大切に過ごしたい。
校長 中村三喜
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2024年4月25日(木)
校長より生徒の皆さんへ【第30回】
校長より生徒の皆さんに第30回目の言葉です。
2024年4月25日(木)
生徒の皆さんへ
「歩き続ける」
長い人生のうちには、時には避けがたい災難、苦難に、突然見舞われることがある。何も悪いことをしていないのに、どうして・・・・・・と世を恨み、悲嘆にくれる。
いつ、誰に、どんな運命が訪れるのか、それは誰にも分からない。そんな危うい土台のうえに、お互いの日常は成り立っているといえよう。
この世には個人の意思ではどうにもできない、理不尽なことが確かに起こる。そして、そんな出来事に遭遇してもなお、人はやはり生きていかなければならないのである。
つらいとき、悲しい時は、思い切り泣けばいい。涙を流し、悲しみや苦しみを洗い流そう。だが、そうしてしばしば心を慰め、癒したら、これすべて我が運命と受け止め、今日を、明日を生きていこう。
口には出さないけれど、多くの人が何らかの悲しみを抱きながら、日々を懸命に生きている。今はどんなに辛くても、一歩一歩、とにかく歩き続けていれば、時の流れが少しずつ心の痛みを和らげてくれるに違いない。
校長 中村三喜
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2024年4月24日(水)
校長より生徒の皆さんへ【第29回】
校長より生徒の皆さんに第29回目の言葉です。
2024年4月24日(水)
生徒の皆さんへ
「聞く耳」
自分の間違いや欠点を指摘されるのは、誰しもあまり気分のいいものではない。だからお互い、人から正面切っての注意を受けると、内心ではつい嫌な気分になって、反発したり言い訳したりしがちである。
けれどもそんな時こそ、自らの感情の動きに囚われず、素直な心で耳を傾けることが大切ではないだろうか。
親・兄弟などの身内ならともかく、他人が面と向って間違いや欠点を言ってくれることは少ない。言わなくてもいいことを言って、わざわざ嫌がられることはないというのが大方の人情であろう。
そんな中で、あえて言いにくいことを言ってくれる人は貴重である。その声に耳を傾け、一時の感情に左右されずに、指摘された間違いや欠点を認める。そこから、よりよき自分へと向上する歩みも始まるのである。
心地よいことなら誰でも聞く。不愉快なことを言われても、それが真実なら受け入れるのが真に聞く耳を持つということである。素直な心で聞くということも、実はそんな姿を言うのではないだろうか。
校長 中村三喜
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2024年4月23日(火)
校長より生徒の皆さんへ【第28回】
校長より生徒の皆さんに第28回目の言葉です。
2024年4月23日(火)
生徒の皆さんへ
「意味」
この世の中に起きること、人生で起きることにはみんな意味があるというけれど、どうしてもその意味を見出せないときがある。なぜこんな辛い思いをしなければならないのか。いくら考えても、納得のいく答えは得られない。
ただ一つ言えるのは、自分が生きてここにいるのは、選ばれてこの世に生を受け、生かされているということだ。だから、たとえ絶望の淵に沈んでも、命ある限り人は生き続けなければならないのである。
事態がすぐに変わることはないだろう。しかし、人間には、どれほど厳しい試練でも、それを乗り越え、未来を切り開いていく力がある。過去、幾多の先人が、数々の惨禍から立ち上がり、復興を成し遂げたように。
生きていることがいかに尊く、幸運かを改めて心に刻み、自分にできることに精一杯、取り組んでいきたい。そうすれば、挫(くじ)けずに頑張ってきてよかったと心から思える日が、きっと来るはずである。
その時にはじめて、自らの人生において、今の苦境に出遭った意味がわかるのかもしれない。
校長 中村三喜
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2024年4月22日(月)
校長より生徒の皆さんへ【第27回】
校長より生徒の皆さんに第27回目の言葉です。
2024年4月22日(月)
生徒の皆さんへ
「回り道」
青葉が繁る春本番のこの季節、陽気につられ勉強も仕事も好調であれば、気分は上々であろう。ただ、一方で調子よくきていたものが、最初の曲がり角を迎えるのもこの頃ではないだろうか。
自信とは不思議なもので、失いかけると一気に音を立てて崩れていく。加えて不安がつのれば、自己否定の悪循環に陥ることもしばしばである。そんな時こそ、心をリセットして、一度肩の荷を下ろそう。自分を点検する最初の機会が来たと考えればよい。
目覚ましいスタートダッシュが切れればそれに越したことはない。けれども、カーレースでも適時ピットに入り、補給や修理、戦略の練り直しをするのが必須で、要するに走りっ放しでは勝てないように出来ている。人生も同じなのである。
それに近道もあれば回り道もあるのが人生ではないか。ともすれば近道を選びたくなるのは人情だが、あとからしみじみ幸運を感じるところこそ、回り道の奥深さであろう。
人生は長い。あせらず、時には回り道の風景を味わっておくことも得難い体験になるに違いない。
校長 中村三喜
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2024年4月19日(金)
校長より生徒の皆さんへ【第26回】
校長より生徒の皆さんに第26回目の言葉です。
2024年4月19日(金)
生徒の皆さんへ
「睨んでいるだけでは」
禅の開祖・達磨大師は修行のために壁に向かって坐禅を組んだ。以来、雨風に曝(さら)されようが、膝に蜘蛛(くも)が登ってこようが、わき目もふらず面壁(めんぺき)9年。悟りを得た達磨大師は、足を解いて立ち上がった際、こう言ったという。
「なるほど、ただ睨んでいるだけでは、壁に穴を穿(うが)つことはできぬ」
さて、当たり前の事実を言うこの言葉。これをたわいもないことと笑っていいのだろうか。仕事や学習において、日常、成すべきことに囲まれているのが私達である。けれども、そのすべてを遂行できているかと言えば、甚だ心もとない。
理念に基づく尊い仕事ですら、気を許せば、理想を追求するより、できる現実に照準を合わせている。実力向上を望んで準備する試験も、結果が伴わなければいつも別の理由を探している。
それはやれなかったのではなく、結局、睨むばかりでやらなかったことと同じではないだろうか。
穴を穿つには、断固たる覚悟が求められよう。睨んでいるだけでは何も成しえないのである。
校長 中村三喜
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2024年4月18日(木)
校長より生徒の皆さんへ【第25回】
校長より生徒の皆さんに第25回目の言葉です。
2024年4月18日(木)
生徒の皆さんへ
「レポート学習」
2020年に日本でも発症が確認された新型コロナウイルス感染症防止のために、国内のすべての学校が休校や分散登校を経験しました。そこで学んだことはレポート学習の重要さです。まず、自ら学ぶ学習です。
つまり、教師による一方通行型の授業とは違い、それを反転させた形でのレポート学習によって、「考える力」が向上することがわかってきたからです。「考える力」は「探究心」「創造力」「自主性」「頑張る力」などを引き出し「生きる力」に直結します。
本校の皆さんは、既に、それを先行して実践していましたし、コロナ禍によって休校中でも当たり前として取り組んできたと思います。改めて、レポート学習の重要性を認識しましょう。知らず知らずのうちに、それが生きていく上での自信を生み出すのです。
校長 中村三喜
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2024年4月17日(水)
校長より生徒の皆さんへ【第24回】
校長より生徒の皆さんに第24回目の言葉です。
2024年4月17日(水)
生徒の皆さんへ
「定説」
従来よいとされていたことが、あるときを境に、実はまったく間違いだったと、常識や通説が覆されることがある。評価が百八十度転換して困惑し、戸惑うばかりである。
何事においても、人はその時々のメディアやオピニオンリーダーの主張、論説をそのまま信じてしまいがちである。これがいいといわれれば無批判に従い、あれがいいとなればすぐまたそれに追随する。だが、そうした姿勢に終始していては、大抵の場合、振り回されて終わるのが落ちであろう。
現代は、さまざまな情報が溢れている。そんな中で、多数の支持する考え方が普遍の真理とはいえないし、権威ある人の知見だからといって、必ずしも正しいとは限らない。一般論や定説を鵜呑みにせず、虚実を判断したいものである。
そのためには、常に自分の頭で考え、追求し、納得したうえで選択することを習慣づけたい。本当に正しいか、受け入れるべきなのか、場合によっては、まず疑ってかかることも必要だろう。
併せて、選んだ結果はどうであれ、その責めは自ら負わなければならないこともしっかりと肝に銘じておきたい。
校長 中村三喜
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2024年4月16日(火)
校長より生徒の皆さんへ【第23回】
校長より生徒の皆さんに第23回目の言葉です。
2024年4月16日(火)
生徒の皆さんへ
「伝え方」
スマホやメール、そしてインターネットによる種々のサービスにより、気持ちや情報を伝えるのに、これほど便利な世の中になると誰が想像したことだろう。
ただ、それによって人と人との相互理解が進んだかといえば、残念ながらそうではない。いさかいは減るどころか、コミュニケーション不足による事故や事件は、日々増すばかりである。
その一因は、情報ツールにおける些細な誤解があるからではないだろうか。たとえば、スマホでメールを書き、送信ボタンをクリックすれば、送信者側はその瞬間に伝えたと思い込み、見ていない受信者側をつい非難してしまう。また、単なる言葉の打ち間違いが、相手の心のしこりとなって、後で大きなトラブルに発展することもある。
伝える手段が多いのはありがたい。けれども、伝え方には長短があり、手間がかかっても直接話し合ったり、手紙を書いたりすることもやはり重要だろう。
情けに報いると書いて情報である。伝わればよいのではなく、よく伝えようとする心がけを忘れずにいたい。
また今は、AI(人工知能)が急速に発展している。バーチャルとリアルの仕切りも見えなくなる時代を迎えようとしている。ますます、伝える力は重要になってくる。
校長 中村三喜
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2024年4月15日(月)
校長より生徒の皆さんへ【第22回】
校長より生徒の皆さんに第22回目の言葉です。
2024年4月15日(月)
生徒の皆さんへ
「運命」
この世に永遠というものはない。どんな形であれ、身近にいるすべての人との別れがいつかは訪れる。
まさか自分がこういった人生を送るなんて思いもよらなかった・・・。過去を振り返り、今ここにこうしていることの不思議さに、ふと感慨を覚える。誰にでもあるのではないか。
今の境遇は自ら選んだようであり、一方で、折々の様々な出会いと偶然によってもたらされたようでもある。しかし、さらに突き詰めていくと、このようになっていた。これが運命だったのだという思いに行き着く。
お互い、これからどのような人生が待っているか、いつ何が起こるかわからない。よいこともあれば、時には過酷な出来事に遭遇することもあろう。
だが定められた運命なら、すべて引き受けるしかない。運命に従いつつ、その時々の自分にできる精一杯のことをやっていけばよいのではないか。そう感じれば安心感も得られよう。
たとえ困難に陥り、不本意な状況におかれたとしても、それは自分に与えられた貴重な試練。自棄(やけ)になって自ら不幸を招くのだけはやめたい。
それが悔いを残さず、最後の最後に、生まれてきてよかったと心から思える人生の歩み方といえよう。
校長 中村三喜
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2024年4月12日(金)
校長より生徒の皆さんへ【第21回】
校長より生徒の皆さんに第21回目の言葉です。
2024年4月12日(金)
生徒の皆さんへ
「場」
先ほどまで竹刀の音が響いていた道場で、剣士たちが正座し黙想、そして静かに道場に一礼する。ユニフォームを泥だらけにした野球少年らが一列になり、大声と共にグランドに向かってお辞儀をして練習を終える。
多くのスポーツ選手が示す、場に対するゆかしい振る舞いは、観ている者にも一服の清涼剤である。その清々しさがどこから来るのかといえば、自分たちが鍛えられるところ、成果を出すところの場の意義をよく理解し、感謝と敬意を忘れないからではあるまいか。
これは日本人の礼の躾の一端によるものであり、海外のスタジアムで、日本人観光客が観戦後に座席を掃除して称賛されるのも、同じ意識の発露なのであろう。
人間同士の礼にとどまらず、こうした、いわば場への礼の精神が浸透すれば、社会はより豊かになるに違いない。
コロナ感染の5類移行後も、それ以前と変わらずに多くの外国人が来日し、海外との交流はますます深まろうとしている。グローバルな時代に、日本人の一人として場に対する美意識を世界にも広めたい。そして自分にとっての場をどのように大切にするか、時に思いを巡らせたい。
校長 中村三喜
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2024年4月11日(木)
校長より生徒の皆さんへ【第20回】
校長より生徒の皆さんに第20回目の言葉です。
2024年4月11日(木)
生徒の皆さんへ
「回り道」
努力すれば報われると信じて、懸命に取り組んでいるのに、なかなか思うような成果が上がらない。むしろかえって状況が悪くなる。もう一度、と思い直してぶつかるたびに跳ね返されて、気が滅入り自信が揺らぐ。そのうちにいつしか訪れる深刻なスランプ。仕事や人間関係などで、誰もが何度かは経験する人生の試練である。
行く手を遮る障害物に出遭った場合、何とかこれを乗り越え、突き破ろうと正面から取り組むことは、むろん大事である。けれどもそれに囚われて、それしか道はないと思い込むのは早計だろう。
障害物の中には、乗り越えられないものも、突き破れないものもある。それに対してただ体当たりを繰り返すだけでは、心身共に疲れてしまう。一息入れて時を待つとか、一歩下がって力を蓄えてから出直すとか、対処の手立ては他にもある。
あせらずにいま一度、障害物の正体を冷静に見極めてみたい。そして改めて、我がとるべき策を考えてみたい。回り道が近道かもしれないのである。
校長 中村三喜
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2024年4月10日(水)
校長より生徒の皆さんへ【第19回】
校長より生徒の皆さんに第19回目の言葉です。
2024年4月10日(水)
生徒の皆さんへ
「人財」
親にとって、子供はいつまでたっても子供である。たとえ成人しても、子供が父親になり母親になっても、元気でやっているだろうかと気にかかる。もし辛い思いをしていれば、我がこと以上に心配し、代われるものなら代わってやりたいと思う。それが世の親の気持ちであろう。
希望に胸を膨らませて新入生、新入社員が入ってきて10日。皆、そうした親の思いを一身に受け、愛情をもって育てられ成長してきた人達である。その人材をいかに導き、育てるか。後進の指導、育成は人生の先輩として果たすべき役割であり、責任である。
とはいえ、速く成長してほしいと願うあまり、少しでも気になるとあれこれ口を出し、世話を焼くのは好ましくない。良かれと思ってすることが、かえって本人のためにならないこともある。放任もいけないし、過保護でもいけない。難しいことだが、その見極めが求められよう。
いずれにせよ大切なのは、一人ひとりすべての人が、両親をはじめたくさんの人に愛情を受けたかけがえのない人だということである。そのことを常に意識してその人と向き合いたい。
校長 中村三喜
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2024年4月9日(火)
校長より生徒の皆さんへ【第18回】
校長より生徒の皆さんに第18回目の言葉です。
2024年4月9日(火)
生徒の皆さんへ
「新しい夢」
今の小学生に将来の夢として、なりたい職業を尋ねると、男の子ならプロスポーツ選手やゲームクリエーター、女の子なら保育士、医師、パティシエといった答えが返ってくるという。時代の違いはあるけれど、子供達の夢はいたって明快、語らう姿を想像するだけでも微笑(ほほえ)ましい。
ところが夢のとおり叶うかはさておき、大人になって職に就き、幾春秋が過ぎるうちに、いつしか新しい夢を持たなくなってしまう。
いやいや仕事には常に目標があり、目標を達成すればまた次の目標が与えられ、倦(う)むことはない。そう言い切れるならばそれはそれで結構なことだ。
とはいえ、目標は一つの目安にすぎない。まして目標達成のために汲々(きゅうきゅう)とし、真の仕事の喜びや自分を高める楽しさを見失ってはつまらない。
仕事に限らず、いつも夢を持ち続けよう。日常の些事(さじ)に追われて疲れを覚えても、夢を思い起こせば元気が戻ってくる。
人生は夢あればこそ輝くことを忘れないでいたい。
校長 中村三喜
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2024年4月8日(月)
校長より生徒の皆さんへ【第17回】
校長より生徒の皆さんに第17回目の言葉です。
2024年4月8日(月)
生徒の皆さんへ
「傷つけない」
見方によれば、人は日々、互いの心を傷つけ合って生きているのではないか。自分の無遠慮な振る舞いが人を不快にし、意味ありげな他人の言葉に棘(とげ)を感じる、そうした、人を傷つけたり、傷つけられたりした経験は誰にでもあろう。
ただ、それが大きな問題にならないのは、多くの人が寛容な心で水に流しているからに違いない。
もちろん、時には傷つけられた怒りを溜めこむ人もいる。
まして、自分が貶(おとし)められ、相手が反省していないときなど、憤(ふん)まんやるかたないことだろう。だからといって怒りをぶちまければ、また新たに傷つくだけである。
まずは傷つく人を減らそう。そのためには、人の心の痛み、悲しみに共感できる力を、お互いもっと養おう。そうすれば、誰かが傷つきそうな場合に、早めにブレーキがかけられる。
傷つくのは自分だけではない。誰だって傷つくのである。それに、「人を呪(のろ)わば穴二つ」、人を傷つけようとすれば自分にも必ず返ってくる。そんな心の因果をよく心得て、人格を高め合いたい。
校長 中村三喜
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2024年4月5日(金)
校長より生徒の皆さんへ【第16回】
校長より生徒の皆さんに第16回目の言葉です。
2024年4月5日(金)
生徒の皆さんへ
「持ち味を発揮する」
持ち味や個性というとき、私達は多くの場合、個々の際立った能力や力量を言う場合が多い。
しかし、それだけでは,とりたてて才能といえるものがない人に持ち味や個性はないということになってしまう。
何が自分の持ち味なのかわからず、自分に自信が持てないとか、自己肯定感が低いと悩む人の多くは、持ち味や個性の捉え方に迷うあまり、思い詰めてしまっているのではないだろうか。
自分のことを知りたければ、まず外に出て、人と交わったり、一緒に体を動かしたりするといい。すると、自分が本当に好きなことや自信の持てる何かが見つかると思う。「持ち味は縁によって開く」ということである。
しかも、能力や才能だけでなく、たとえば花のように、そこにいるだけですでに持ち味を発揮している・・・・そのようなひとり一人であることを発見するのである。
そして、その気づきによって、自己評価はもちろん、他の人を見るときにも豊かな見方ができるようになる。それは、たとえば単に短所や長所を見るような、いわばテクニックではなく、短所も長所も含めて「あなたは大切な人」と称え、すべてを生かす眼差しである。
そのように見る素直な眼、心を具(そな)えていることが、私たち人間本来の持ち味ではないだろうか。
校長 中村三喜
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2024年4月4日(木)
校長より生徒の皆さんへ【第15回】
校長より生徒の皆さんに第15回目の言葉です。
2024年4月4日(木)
生徒の皆さんへ
「自然の理」
梅が咲いて鶯(うぐいす)が鳴き、桜がほころんで雲雀(ひばり)がさえずる。春から初夏へ、野山には草木が萌え、花々が咲き競い、小鳥たちが舞い歌う。小さい花も大きい花も、木々も小鳥たちも、それぞれに華麗で絢爛(けんらん)、精一杯の生命の躍動である。
しかし、この豊かな自然の装いも、形はさまざま、色とりどりの花や鳥があればこそであろう。「梅に鶯」の情景には、もとより格別の風情があるけれど、もしこの世に花は梅、鳥は鶯だけだったとしたら、とてもこの華麗さ、豊かさは生まれまい。さまざまでとりどり、百花繚乱の彩りこそが、やはり自然の理なのである。
お互い人間も、同じ自然の理の下に生かされている。さまざまに違う人が、とりどりの個性を持っていて、その違いがそれぞれに処を得て存分に生かされるとき、華麗で絢爛、豊かな文化の花が開くのだ。
違いを嘆かず羨まず、それぞれに力を尽くし、共々に助け合って、彩り豊かな人間社会を築く努力を重ねたい。
校長 中村三喜
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2024年4月3日(水)
校長より生徒の皆さんへ【第14回】
校長より生徒の皆さんに第14回目の言葉です。
2024年4月3日(水)
生徒の皆さんへ
「短所」
この世の中に完全無欠の人などはいない。百年に一人の天才であろうとも、所詮人は人である。言い換えれば、どんな人でも少しばかりは短所があろう。むしろあらを探せば、誰もがたくさんの短所と折り合いをつけて生きているのである。
そう考えれば、自分の短所やコンプレックスにいたずらに心を煩わす必要はない。もし、そうした思いから抜け出せないのなら、冷静に自分を見つめ、まず事実をそのまま受け容れることであろう。
そして次には短所を個性ととらえ、いかに長所に転換することができるかを模索すればよい。そもそも短所があることによって己を戒め、謙虚になることができるし、自己修養に務める姿勢にもつなげられるのだから。
これからの時期、多くの組織や学校では新入社員や新入生も基本を身に付け、本格的な仕事や学びが始まる。不安と期待が入り混じるなか、自分の短所をどこまで適切に処しきれるものか試してみよう。
真摯な努力さえ続けていれば、短所を克服したり、何かでカバーしたり、あるいは長所に変換したりしてきっと一皮むけることもかなうに違いない。
校長 中村三喜
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2024年4月2日(火)
校長より生徒の皆さんへ【第13回】
校長より生徒の皆さんに第13回目の言葉です。
2024年4月2日(火)
生徒の皆さんへ
「幸運」
乗ろうと思っていた電車に間に合いそうにない。諦めようかと迷ったが、ともかく急いで向ってみる。すると、その日に限って、電車が定刻より少し遅れていて乗ることができたといった経験が誰にでもあるのではないか。
どうせダメだとゆっくり歩いていれば、きっと、間に合わなかった。こうしたことは日常の些細な出来事で、たまたま運がよかったのだともいえよう。
ただ、人生において確かなのは、自らは何の努力もせずに、願っているだけでは、幸運を引き寄せられない。そして、しょせん無理だと考えてしまったら、どんな望みや目標も叶えられないということである。
諦めてしまうのは簡単だ。人情として、とかく易きに流されてしまいがちだけれど、それでは充実感も達成感も味わえまい。挑んだ結果、たとえ事が成らなくても、できるだけのことはやったと思えれば納得もいく。
何事も、とにかく最善を尽くしてやってみよう。希望を失わず、全力を傾けよう。もしかすると、あと一歩で目指す目標に手が届くかもしれないのである。
校長 中村三喜
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2024年4月1日(月)
校長より生徒の皆さんへ【第12回】
校長より生徒の皆さんに第12回目の言葉です。
2024年4月1日(月)
生徒の皆さんへ
「言葉」
大切な人を突然亡くし、悲嘆に暮れている相手には、どんな慰めの言葉も耳元を通り過ぎてゆくだけである。
そのような言葉は一面頼りないものだけれども、人の人生を左右する力をもっていることも事実であろう。“あの人の一言を支えに、今日まで生きてくることができた”、“この言葉に出会わなかったら、今の自分はない”。それほどの影響力があるのも、また言葉だといえよう。
「物言えば唇寒し秋の風(松尾芭蕉)」のように、口は災いのもとだからと口をつぐみ、互いに思ったことを言えないのは、人間として生まれ、ともに生きているものとしてあまりに侘しい。
たとえ、自分の気持ちなど分かるわけがない、同情はいらないと強がっていても、誰もが心の底では、自分のことを理解してほしいと思っているのである。
真実の言葉は必ず相手の心に届く。人の気持ちに寄り添い、真心からの言葉をかけ合いたい。相手を慮(おもんばか)りながら、自分の思いや考えを素直に伝えあいたい。
そこからお互いの理解と、温かく豊かな関係がきっと築かれてくる。
校長 中村三喜
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2024年3月29日(金)
校長より生徒の皆さんへ【第11回】
校長より生徒の皆さんに第11回目の言葉です。
2024年3月29日(金)
生徒の皆さんへ
「時間」
「楽しすぎて時間の経つのも忘れる」「忙しすぎて時間が足りない」「今日も一日が長い」。
ともすれば人は時間に対して様々な不平を言う。けれども、不平等だらけの世の中で、最も平等なものが時の流れであろう。
たとえば一日の長さは、世界中同じで、老いも若きも関係ない。天才も凡人も、富める人も貧しい人も変わりなく、しかも、過去も現在もやはり同じ。古代ローマの人々も、中国の皇帝も、現代人と同じ長さの一日を生きていたわけである。
それを時が経つのが早いと焦ったり、遅いと愚痴を言ったりするのは、人の勝手な受け取り方ではないだろうか。本来、時間を使う自分の心がけの問題であろう。
肝心なのは時間の支配者は自分だと自覚することである。活用法を工夫して、効率重視に徹したり、あえて何もしなかったりと、そんな実験もしてみればよい。試み次第では、有効な時間の使い方が新たに発見できるかもしれない。
常に充実した時を演出できる人でありたい。そんな「時の名人」ともなれば、人生も大きく変えられよう。
校長 中村三喜
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2024年3月28日(木)
校長より生徒の皆さんへ【第10回】
校長より生徒の皆さんに第10回目の言葉です。
2024年3月28日(木)
生徒の皆さんへ
「鏡」
鏡とはありがたい。いかなる時でも、まぎれもない自分を映してくれる。暮らしの中で鏡がなければどれほど不便であろう。自分の身のこなしが望ましい姿かどうかを映し見るために、鏡は不可欠な物である。
自分を映すという点では、お互いの心も鏡に似ているのではないだろうか。人と人が交流する際、感応しあうのが人間というものだろう。己の傲慢なふるまいは相手の傲慢を呼び、謙虚なふるまいは相手の謙譲を惹起する。
時に一方的な思い込みはあるものの、相手が自分に抱いている感情は、自分がその相手に抱いている感情が何がしか投影されているとは言えまいか。だからこそ、礼節を尽くせば、礼節を尽くされる。まさに鏡のごとくなのである。
人は一人では生きられない。人として生きることは、いかに他人とともに生きるかでもある。他人に誠実でありたいと望むなら、何が正しいのかを問いつつ、常に自分を省みる努力が求められよう。その試みのために、相対する人の振る舞いを我が姿見として、自らを律したい。
校長 中村三喜
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2024年3月27日(水)
校長より生徒の皆さんへ【第9回】
校長より生徒の皆さんに第9回目の言葉です。
2024年3月27日(水)
生徒の皆さんへ
「継続」
目指す結果を楽々と、早く手にできればいいけど、そうはいかないのがお互いの人生であり、勉強であり仕事である。
まして初めて経験することに取り組むとき、すぐに要領はつかめない。工夫を重ね、研鑽(けんさん)に努めても、なかなかうまくいかないのが普通であろう。
それなのに、人は往々にして、思うように成果が上がらないといって、自分は向いていないのではないか、他のことをやったほうがよいのではないかと心を悩ませる。
だが、自分に向いているかどうかなど簡単にわかるものではない。また、向いていなくてもやらなければいけない場合もあれば、向いていると思うことをやれない場合もある。それが現実の姿である。
だから、いたずらに心を惑わされず、ともかく目の前のことに没入しよう。これをやるのも一つの運命、必ず何らかの意味があるのだとの思いを定め、コツを会得できるまで、懸命に、なすべきことをなしていこう。
継続はけして裏切らない。これが自然の理であり、成功の鉄則なのである。
校長 中村三喜
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2024年3月26日(火)
校長より生徒の皆さんへ【第8回】
校長より生徒の皆さんに第8回目の言葉です。
2024年3月26日(火)
生徒の皆さんへ
「興味」
“こんなことができたらきっと楽しいだろうな”、“自分もやってみたいな”。ともすれば日常に流されがちな日々の中で、ふと心を惹かれることに出会うことがある。
そんなとき、“いつか機会があれば・・・・”といってやり過ごしたのでは、結局、何も変わらないまま終わってしまうことになりかねない。
確かに、初めてのことに手を出すのは億劫だったり、忙しくて時間が割けないという思いや、自分にできるだろうかと躊躇する気持ちも湧いてくる。だが、人生を充実させて生きるために大切なことは、やりたいことが見つかればやっていくという積極的な姿勢ではないか。
せっかく興味を抱いたのなら、一歩踏み出し、思い切ってやってみよう。そこからこれまで経験できなかった新しい世界が開け、日々の生活にも新たな彩りが生まれてくるにちがいない。
何よりいけないのは、やっておけばよかったと、あとで悔やむことだ。人生は一度しかないのである。
校長 中村三喜
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2024年3月25日(月)
校長より生徒の皆さんへ【第7回】
校長より生徒の皆さんに第7回目の言葉です。
2024年3月25日(月)
生徒の皆さんへ
「期する」
仕事やスポーツの上達は、一気にはいかないものである。一歩一歩、地道な修練を続けていくしかない。時に飛躍的に伸びることもあるけれど、それも過去の努力があったればこそで、一朝一夕に大きな変化は望めない。
だが、自分の心や行いは、変えたいと心に決めれば、すぐにでも変えられる。それを、自分はこんなものだとか、そんなに簡単には変わらないといって、うじうじ、ぐじぐじしていたら、変わるものでも変わらないのだ。要は変えようと決意するかどうか。その一点にかかっているといえよう。
同じものでも、心のありかたによって、明るくも見えれば暗くも見える。だから、同じことなら、まだまだ変われる余地を持っているのだと明るく捉え、自分の心がけや行動をどんどん変えていこう。それを積み重ねていけば、お互いの人生をより好ましい姿にきっと近づけていけるに違いない。
人の心は伸縮自在。持ち方一つで、心はいつもブルーオーシャン。青い大海原がどこまでも広がっているのだ。
経営学で言うところのブルーオーシャンは競争のない世界。レッドオーシャンは競争の激しい世界。どちらが企業として望ましいかと同じことだ。
校長 中村三喜